京大公論
そもそも「いい子」という概念自体が、他人の評価に拠ってたつものだ。親には子供を「いい子」に育てなければならない、というプレッシャーがかかっている。好き好んでチンピラや不良を育てたい人はあんまりいない。そして、その「いい子」には目立つほどすごいところも、独自性なども求められない。求められるのは、普通よりも少し反応がいいレベルで、全体的にバランスが取れている事だ。
「いい子」には、ある意味で普通の大人並の道徳観念が成立している。しかし、それは大人になる過程で自発的に蓄積されていった道徳観念ではない。本来ならば、様々な失敗を繰り返した上で、そこから学んで、蓄積していくものだと思う。例えば、自分のわがままを通そうとしたら、皆から嫌われてしまったりする。それでようやく、わがままは通らないんだ、わがままを言わないようにしよう、という気持ちが発生する。それが道徳観念であろう。「いい子」のそれは、そのようなプロセスではない。彼らは親に、あるいは親以外の大人に「〜〜してはならない」と規定され、それに縛られている。そして、縛られているがゆえに、その道徳基準は変化しない、つまり、成長していかないのだ。そして、「〜〜してはならない」がゆえに、彼らは自分の気持ちに素直に行動できないようになり、自分の気持ちが分からなくなって行く。それは、まるで自分の中にある「これがしたい」というエネルギーが出てくる箱に一個一個蓋をしていくようなものだ。結果的に、自分が何をしたいのかよく分からない、という人間が生まれてくる事になる。彼らは他人の基準に依存する。そのため、「〜〜大学を出ればいい人生が送れる」「大手の会社に行けば、一生安泰」という幻想に振り回される事になる。そうやって多くの人が裏切られていった。
皮肉な事に、彼らの両親は、「良かれ」と思ってそのように自分の息子・娘に接してやっているのだ。しかし、問題は、その際の基準が自分の内側、経験を通して生み出されたものではなく、一般的な評価に依存してしまっている事ではないだろうか?(正確には、まるっきり内側の経験がないわけではない。一般的な基準はある程度妥当性を持つために、それがいいのだという経験をすることもあるであろう。しかし、そうでない場合があるというケースの経験は無視され、そのとおりであるというケースの経験が強化される)
「いい子」と正反対の軸に位置するのは「悪い子」という存在である。彼らは、何度か自分の意志で行動した時、不幸な事にそれが一般的な基準から見て悪い事だったために、親から、或いは周囲の大人から「悪い子」と規定されてしまったため、「自分が悪い子なのだ、だから俺は悪い事をしても許される」と思ってしまうケースである。彼らは悉く一般的なルールに反抗していく。本当は彼らは自分が悪くないのだ、と主張したい。そして、受け入れられたい。しかし、周囲はもはやレッテルしか見ない。彼らとて、自発的に何かしたいことがあるわけではない。ただ、周りの何もかもが気に入らないだけだ。
「いい子」と「悪い子」、この中間は何だろう?僕はここで仮に「自由な子」と呼ぶことにする。「自由」とは他人の基準から自由であるということだ。それは自分自身の心の中に、基準を持つということである。それは、自分の人生の責任を引き受けるということだと思う。自分自身に対する厳しさを持つ事であると思う。そういう人は、今どれくらいいるんだろうか?
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