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浅田彰 第2章


1. 第X期批評空間・共同討議 2006/08/25(金) 03:10:17
前スレ 浅田彰(第1章)
http://kyoto-u.com/lounge/discuss/html/200212/02120026.html


数学者・森毅(東大数学科→京大教授)の評価。

 10年ほど前[だから大昔の1970年代]「現代数学」という雑誌で、ぼくは対談の連載をしていた。最初のうちは編集部で対談原稿をまとめてくれていたのだが、なにやかやと当方で整理せねばならず、それも、編集部のほうが疲れてアルバイト[たぶん京大理系の学生さんw]を使いだしたら、目も当てられぬ大破綻で、ついには全面的にぼくに負担がかかりそうになった。
  これではたまらぬと、身辺に器用そうな学生がいたので、彼をアルバイトに斡旋することにした。これがまた、予測をこえて有能で、こちらはなにもしなくとも、ちゃんと原稿に仕立ててくれる。それが、若き日の浅田彰だったのである。
 浅田については、なんでも知ってるとか、なんでもわかるとか、ま、そうしたことでヒーローになったが、それはまあ、極端に性能のよいコンピュータのようなものであって、どうということはない。それより、彼の真価は編集能力にある。一見は関係のなさそうなことを、変換してきて別の文脈に関連づけ、それをうまくアレンジして並べる。(中略)余白だらけのぼくの対談でも、浅田の編集になると立派げになるところが魔術的である。
 対談というのは、言葉のパフォーマンスを楽しむようなところがある。論説めいたもののように、書き手と読み手との間に、メッセージの送り手と受け手といったヒエラルキーがないのがよい。そこから何を解読するかは、読者の自由である。この点で、ぼくのような非メッセージ人間に向いている。それで、ぼくは対談というのが大好きである。ただし、それも[浅田彰のような]よき編集者あっての話だ。

2. 第X期批評空間・共同討議 2006/08/25(金) 03:12:38
森さんは
「四十才過ぎて普通に論文書いてる奴は京大ではアホ」ってのが持論(w

なんか自己弁護にも聞こえるが(w

3. 第X期批評空間・共同討議 2006/08/25(金) 03:15:11
>「四十才過ぎて普通に論文書いてる奴は京大ではアホ」

たしかに分野によっては、いえてるよね。理系、とくに工学系では、当然な話だろうし、経済学とかでも、そうなのかもしれない。

でも、哲学系では、若いヤツより、齢くってから、教育現場退いてからの方が、味わい深く老練博識な論文が期待できると思うな。若手の論文なんか、あまりオモロイとは、思わないじゃん、哲学に関しては[東浩紀は例外だけど]。

4. 第X期批評空間・共同討議 2006/08/25(金) 03:18:21
「大学と言うところは学生が勝手に学ぶところということで私は授業に熱心でないのですけど、自主講座っていうのはそれにかなっているということで」
「ポストモダンは成長から成熟、悪く言うと進歩から停滞へ、新しい中世と言われたり、小さい差異のざわめきに還元できるかのようなイデオロギーとして機能したりした。素直に言って僕もその責任の一端を担ったことを認めますけども」
「アルチュセールはマルクスをドゥルーズはニーチェをデリダはハイデガーをパラフレーズしただけで反人間主義の危険な遊戯である、というのがドミナントなイデオロギーになっていると思います。リュック・フェリーとアラン・ルノーのデュオなど。フランス革命の自由と人権思想でヨーロッパ的秩序をつくりましょう、と言っても第三世界のことは触れないんですけどね。」
「ナントカ入門は読まない方がいいですね、ナントカを読めばいいんです、フーコー入門を書いている人はフーコーより馬鹿に決まってるんですから」
「田中康夫のような人でも前近代的制度を破壊するという面においては応援できる、というか実際応援してますよ。じゃあ田中康夫のやり方ですべてが解決できるかというと絶対そうではないですね。地域レベルで妥当なやり方がグローバルの問題に当てはまるとは限らないし、田中康夫自身もそうはやってない。その意味で竹中平蔵は、応援しないでもない(苦笑)」
「後期ウィトゲンシュタインとデリダが通じてると思いますね、前期ウィトゲンシュタインは言語は透明なヴェールに覆われた一対一対応のもので、美に対しては単純に沈黙すべきであると。後期は親方が現場でそれ持ってきてと言ったり、バーで酔っ払ってあいつのあれはあれだといったりなんか通じてしまうジェスチャアを含むような言語ゲームを強調してる。哲学科の人はデリダは悪い文学だと言うけどもデリダに言わせれば哲学ってのはもともと擦り減ったメタファーでできている。ハイデガー風言葉遊びのフランス化ではなく、アングロサクソン的な・・・」
「とはいえ今更現象学に戻っても、後期フッサールに退行して身体性とか言ってもはじまらないと思いますね」

5. 第X期批評空間・共同討議 2006/08/25(金) 03:20:40
浅田は、単純に話が面白い。興味がない俺が読んでも。笑いの質が高いし。(お笑い芸人よりずっと、笑わしてくれると思う。)

6. 第X期批評空間・共同討議 2006/08/25(金) 03:23:58
なるほど浅田は思想史的には、不可逆的な無謬性によって規定される有界閉集合上の連続対応というわけね。その上、近代から実数への(ここで考えている)連続対応だから、Arzelaの定理からJordan曲線は一意的に昭和中期へと還元される、と。ここで実数から整数へとクラスを縮小しても同様のことが言えそうだけど、なかなか証明ができないなぁ。あと、連続対応なわけだから、誘導位相を導入して、天下り的にロシア・フォルマリズムと印象批評の直積から或る順序対を任意に取り出して、良く言えば構造主義的な文脈における(k次元ユークリッド空間に投企された)現存在は一意であると予想される。誰か証明して呉れませんか?

7. 第X期批評空間・共同討議 2006/08/25(金) 03:25:55
なお、印象批評はその性格からBanach空間と同値であると見なせるから、有界線形作用素が作るヘーゲルの作品空間上の関数は局所自乗可積分性よりシクロフスキーが現前するという定理を使えると思います。

8. 第X期批評空間・共同討議 2006/08/25(金) 03:27:50
私の研究を下らないと仰る方がおられるようですが、学問を研鑽するとは、そういう一見下らないと思われる地点から出発します。現代思想研究に数理的手法が使われるようになって久しいですが、最近では色々と面白い結果が出ています。例えば、ドゥルーズの作品群はヒルベルト空間上(この空間はルベーグ測度1としても構いません)では一階の常微分方程式で近似できること、また浅田彰とリオタールは定義域を平成元年から10年までとすると一対一対応になる(ただし複素空間において任意の転換写像をとると浅田とリオタールではなく、アムロとシャアが昭和54年の一点で一対一対応になるという結果が出ています)ことなどです。まだまだ未解決な問題は山積されていますが。

9. 第X期批評空間・共同討議 2006/08/25(金) 03:30:21
欧米では研究が盛んですが、日本では馴染みの薄い数理現代思想の研究に幾人かの人が興味を持って頂いたようなので、幾つか未解決問題を挙げて新たな参入者を期待します(数理現代思想が日本で馴染まない理由は高度に数学的なのが一つの理由かも知れません。しかし、ブルバキの『数学原論』程度をを読みさえすれば参入の準備は万全であると思います)。σ一意性集合のもとでは、ボレルの意味で可測な関数を用いるとクリステヴァを要素とすると一意的に大山のぶ代(ないしは丹下段平)になり、またその逆も真であるよいうことが成立するのは有名な定理(Kirshの定理)ですが、関数を同値可測関数、線形汎関数、ミンコフスキーの汎関数での検討、ノルム空間や共役空間といった空間クラスの検討などが今後の問題として挙げられます。現在、Bortzmanが予想しているところでは、「どのような関数をとろうとも一意的にドラゴンボールGTとなる(ただし、バナッハ環においては人間の存在も問題となる)」としています。未熟私には手に負えそうのないものですが。

10. 第X期批評空間・共同討議 2006/08/25(金) 03:32:44
浅田と今村仁司には、共通の「臭さ」がある。彼らの頭のなかでは人間以外の機械状妖怪が上位に来ている。何か潜在的に肝悪りいんだよね。バタイユ「erotism」、パゾリーニ「ソドムの市」etc 。浅田はこういうキワモノが心底好きでかつ密かに実践している変態男に違いない。

11. 第X期批評空間・共同討議 2006/08/25(金) 03:33:46
バタイユは、『構造と力』でヘーゲルとラカンの間をつなぐストーリーの上で重要な位置を占めているね。ここでバタイユについて語ってみるのもいいかもね。ミケル=ボルク・ヤコブセン「ラカンの思想」のラインだね!

12. 第X期批評空間・共同討議 2006/08/25(金) 03:35:30
浅田があの現在の流行からすればダサいと思われるデカい黒ぶちのメガネをかけているのはなぜなのか?敢えてあのメガネをかけている理由はなにか?現在のデザインの主流はレンズが小さくフレームは細い。つまり、メガネ自体を目立たなくする傾向にある。浅田のメガネはそれとは全く逆のデザインだ。浅田はあのメガネの存在を強調するデザインを選んでいるのはなぜか?あのメガネは浅田の洗練された美意識と何か深い関係があるのだろうか?

13. 第X期批評空間・共同討議 2006/08/25(金) 03:37:31
マジレスしよう。浅田みたいなレンズの大きいメガネが実は一番合理的なんですよ。最近の流行の小さい奴は仕事には避けた方がよい。疲れる。縁無しも扱いに神経を使います。縁が欠けるから。つまり、浅田はデザインよりも機能重視ということです。浅田は機能主義者、合理主義者ですよ。例えば、以前の発言で「ゲームセンターと学校の機能を入れ替えろ」というのがありましたが、その心は学校は知識の詰め込みに専念せよ、コミュニケーションスキルだ何だは、他者と直接ぶつかりあうような遊びの場で、ということです。どこかのバカの教育論とは全然違う訳です。

14. 第X期批評空間・共同討議 2006/08/25(金) 03:39:35
あの人(=浅田彰)、いつもしゃべりながら、眼鏡をズリ上げてない?

15. 第X期批評空間・共同討議 2006/08/25(金) 03:41:49
いや、あれはズリ上げてるんじゃなくて、軽く手をやってるだけなんじゃない?他にも壇上のペットボトルにやたらと触れたり手を擦り合わせたり、頬に手をやったりして、自分の頭の回転の速度のまま言葉が流出してスキゾフレニックになったり他人の発言を妨げててしまうことをどうにか押さえてるって印象があるな、あの人(=浅田彰)は。

16. 第X期批評空間・共同討議 2006/08/25(金) 03:43:27
浅田の辛口の批評には、どこかぞっとさせられる。えげつない性癖が感じられるし、文体から黄ばんだ身体が見隠れする。やはりバタイユやパゾリーニを実践しているだけのことはある。

17. 第X期批評空間・共同討議 2006/08/25(金) 03:45:21
知識の行使とサディズムはリビドーの発現としては近いだろうから、
浅田の辛らつさに性癖が出ているのは、多分そうかもしれない(藁

18. 第X期批評空間・共同討議 2006/08/25(金) 03:47:13
紀伊国屋ホールで浅田さんの語りをじかに聴きましたが、絶妙でした。そして、歯切れがいい。本人もよく言うが、とにかく今までの討論の流れを簡潔に整理してしまう。頭脳のキレはペンティアム4の2GHzといったところでしようか。

19. 第X期批評空間・共同討議 2006/08/25(金) 03:50:25
『構造と力』の基礎知識は以下の通り。

コスモス:宇宙
ノモス:社会⇔ピュシス:自然
カオス:混沌
タナトス:恐らくフロイト的な死と破壊の衝動の象徴
エロス:えろえろ
サンボリック:象徴的(ただのフラ語じゃ)
セミオスティック:記号的(ソシュール辞典読め)
ミメティック:ミメーシス(模倣)的
メタ:超越的、形而上学的、要するに議論がハイ・ステージより俯瞰されてること
オイコス:(オイコノミー、経済系かしら)
エディプス:それぐらい知っとけ。親父殺し母犯したドキュン
レヴィ・ストロースとバタイユぐらいしっとけ

『構造と力』読むならラントマン「哲学的人間学」読め。元ネタの宝庫だ。

20. 第X期批評空間・共同討議 2006/08/26(土) 02:26:49
Q:浅田のIQって190を越えてるの?
A:余裕で超えてる。

21. 第X期批評空間・共同討議 2006/08/26(土) 02:29:29
Q:あのー『映画の世紀末』に続いて刊行予定だったという
音楽編、美術・建築編はどーなったんでしょうか??
A:待ってろや。

22. 第X期批評空間・共同討議 2006/08/26(土) 02:33:48
Q:いまさらだけど2chスレの「Aquirax」ってなんて発音するの?
A:フランス語読みすれば、「アキラ」。浅田氏の気取ったサインです。
これはまたラテン語名と同じでAquirax, Aquiracisと活用します。

23. 第X期批評空間・共同討議 2006/08/26(土) 02:45:05
Q:浅田って高校時代の成績ってどうだったの?やっぱ京大にはA判定で入ったんだろうかな。

A:余裕でA判定。で、より重要なことだけど普段の文化水準が半端じゃない。14歳で柄谷行人のテキスト読んでたし、高校のときに、広松の『世界の共同主観的存在構造』読んでて、「面白い」と言ってたぐらいだから。同じく高校のときにフランス語の原書(大学院レベル)を読んでた。

24. 第X期批評空間・共同討議 2006/08/26(土) 02:51:23
そんな事より、ちょいと聞いてくれよ。スレとあんま関係ないけどさ。
このあいだ、紀伊国屋ホールのシンポ行ったんです。第三期批評空間創設のシンポ。
そしたらなんか典型的オタクスタイルの冴えない奴らがいっぱいきてて、びっくりしたんです。
で、よく聞いたらなんかしゃべってて、浅田は論文書かないから京大やめろよなー、とか言ってるんです。
もうね、アホかと。馬鹿かと。
お前らな、ルサンチマン丸出しでシンポ来てんじゃねーよ、ボケが。
穀潰しのオーバードクターだってバレバレなんだよ。
なんか家族連れとかもいるし。一家四人で批評空間か。おめでてーな。
よーし!パパNAM入っちゃうぞー、代表に立候補しちゃうぞー!とか言ってるの。
そりゃくじ引きだっつーの。もう見てらんない。
お前らな、100Qやるから帰れと。
シンポジウムってのはな、もっと殺伐としてるべきなんだよ。
パネラーと客の、いつ喧嘩が始まってもおかしくない、刺すか刺されるか、
そんな雰囲気がいいんじゃねーか。マイホームパパはすっこんでろ。
で、やっと帰ったと思ったら、隣のオタクが、 社会民主主義と変わらないじゃん、とか言ってるんです。
そこでまたぶち切れですよ。
あのな、ベルンシュタインなんてきょうび流行んねーんだよ。ボケが。
得意げな顔して何が、ストライキの復活だねー、だ。
お前は本当に国家を解体したいのかと、問い詰めたい。小1時間問い詰めたい。
お前、アウトローぶりたいだけちゃうんかと。
NAM通俺から言わせてもらえば今、NAM通の間での最新流行はやっぱり、
両替商の開業、これだね。
LETSと円の両替推進、利潤はQで供給。これが通のやり方。
円ってのは誰でも持ってる。さらにドル。これ。
で、ユーロも投入。これ最強。世界の資本をじわじわ解体。
しかし営業がばれると各国政府の諜報部にマークされるという危険も伴う、諸刃の剣。
素人にはお薦め出来ない。

25. 第X期批評空間・共同討議 2006/08/26(土) 02:54:17
あの人の好きな異種配合じゃないけど80年代の頃はホント異種配合的対談をしまくってたみたい。とんねるずとのアホな対談とかね。

26. 第X期批評空間・共同討議 2006/08/26(土) 02:56:58
浅田の知識欲はサルトルみたいなもんだという印象。
周囲に美男美女を集めたがるのも(w

27. test 2006/08/26(土) 02:57:34
test

28. 第X期批評空間・共同討議 2006/08/26(土) 02:58:58
「パゾリーニのイタリア」
講師:浅田彰・岡田温司・篠原資明
場所:日本イタリア会館ホール(市バス201、206系統「京大正門前」下車。
東一条交 差点西入るスグ)
チケット発売は京大生協ルネ他

「マルクスと新たなアソシエーショニズム」
講師:柄谷行人・浅田彰・阪上孝・田崎英明
場所:京都大学法経新一番教室(市バ ス201、206系統「京大正門前」下車。
京大時計台裏)

29. 第X期批評空間・共同討議 2006/08/26(土) 03:00:50
浅田彰:柄谷行人の30分を1分にまとめる男。

30. 第X期批評空間・共同討議 2006/08/26(土) 03:03:04
Q:浅田は英語、米語、加語、仏語、独語、蘭語、瑞語、諾語、芬語、丁語、波語、露語、希語、ラテン語、伊語、西語、亜語、中国語、日本語、濠語、広東語くらいは出来るの?
A:できるよ。

31. 第X期批評空間・共同討議 2006/08/26(土) 03:05:23
浅田 彰
 ●○ ●
 12 5 14
 総運31◎ 頭良く先見の明あり。意志も強く人の上に立つ存在。孤独運。
 人運31◎ 明るく頭脳明晰、几帳面。才能、努力が認められることが多い。
 外運31◎ 順調な人生も突然の幸運に恵まれる。1人で自由にできる環境に向く。
 伏運31◎ 事故運少なし。
 地運31◎ 健康、陽性、幸運。
 天運31◎ 開拓精神で発展していく名門の家柄。
 陰陽 ◎ 理想的な配列です。

32. 第X期批評空間・共同討議 2006/08/26(土) 03:09:27
田中隆博のリトグラフの余白に                   by 浅田彰 

都市を歩く。都市の中で見捨てられたテラン・ヴァーグ−−「生きられた意味」に満ちているのでもなく「廃墟のロマンティシズム」を感じさせることもない 「ノー・マンズ・ランド」を、カメラという機械の目を通して見つめ、フィルムに定着する。それらの写真が無際限に集積されるとき、そこにはもはや人間的な意味付けや物語化の入り込む余地はない。その集積から任意にサンプルを選ぶ。プリントするために?だが、印画紙に焼き付けてしまうと、それはいかにも「写真的」な光沢を帯びてしまうだろう。そこで、非写真的な媒体としてリトグラフが選ばれる−−ただし、今度はいかにも「リトグラフ的」な柔らかみを徹底して排しながら。そのようにして媒体に固有のフィティシズムを削ぎ落とすことで、可能な限りニュートラルな平面表現が達成される。不純な対象(文字通りの空地=曖昧な場所テラン・ヴァーグ)を不純な媒体(写真的な写真でもなければリトグラフ的なリトグラフでもない)によって表現したものでありながら、それはかつてなく純粋な視覚的体験をもたらすだろう。それを見る者は、見慣れていたはずの都市の見過ごしていた部分を、あたかも異星の光景を初めて観察するかのように厳密に見ることを強いられる−−しかも、自分が写真を見ているのかどうかさえ定かではないままに。その視線は、意味付けやフェティシズムを剥ぎ取られて露呈された物そのものの表面に出会うのである。それこそ、田中隆博という名の仮借ない目が発見した次元、鈍い輝きを帯びた視覚の零度にほかならない。

33. 第X期批評空間・共同討議 2006/08/26(土) 03:11:45
「イタリア文化セミナー」は、イタリア美術・映画・建築など、様々な分野より
専門家を講師に迎え、一般の方を対象にわかりやすくお話していただく講座です。
イタリア文化に興味のある方、イタリアについてもっと知識を深めたい方、
どうぞお気軽にお申込ください。

現在、2月17日、24日の二日間にわたり、気鋭の講師陣をお迎えして、
カラバッジョに関するシンポジウムと講演会を企画中です。
多角的な視点からカラバッジョを捉えた刺激的な講演会になることと思います。
詳細は決定次第このページにアップする予定ですので、皆さんどうぞお楽しみに!

講師(アイウエオ順):
      浅田 彰   (京都大学経済研究所助教授)
      石鍋 真澄  (成城大学教授)
      岡崎 乾二郎 (造形作家)
      岡田 温司  (京都大学助教授)
      水野 千依  (京都造形芸術大学専任講師)
      宮下 規久朗 (神戸大学助教授)

34. 第X期批評空間・共同討議 2006/08/26(土) 03:15:06
放送大学講座「演劇を読む」

昨日の朝も放送大学に出ていた。
やはりメガネはズリ落ちていた。
しかしそれもプリティだったよ、彰。
後半、渡辺守章とからんでいたが、パソコンを使いながら
彰がダンスを解説しようとしていた時に、

渡辺:「僕はこういうのは(パソコン)全然ダメで」
彰:「(微笑)」

という場面があったけど、この微笑は、

「もう渡辺さんてば(ハート)」

っぽい微笑だった。

35. 第Y期批評空間・共同討議 2006/08/26(土) 20:05:29
数年前、銀座で。

マッシモ・カッチャーリが来日しました。浅田と小林康夫と磯崎がおりまして、浅田がこんなことを言いました。「海のイデオロギーはグローバリズムで大地のイデオロギーはナショナリズム」みたいなこと。

そうしたらカッチャーリ、「我々にとって海は地中海です。必ずしもグローバリズムには対応しておりません」。

彰さん、初歩的なミスを先生にたしなめられた小学生のように沈黙しておりました。

この人の底の浅さが一瞬、露呈した様な気が。ちなみにこの討議、批評空間の一番最後の号に掲載されております。

36. ↑↑ 2006/08/26(土) 20:07:02
つーか、こいつの暴走を誰か止めてくれ。

37. 第Y期批評空間・共同討議 2006/08/27(日) 19:47:45
誰も私の暴走を止められないのであった。

38. 結論 2006/08/27(日) 23:01:53
Qなぜ浅田は国内的、国際的に評価せれていないのか?

A新しいことを何もしていないから。

39. カッチャーリvs浅田彰 2006/08/27(日) 23:27:12
これはイタリアvsフランス、あるいはイタリアvsアングロサクソン系に対応しませんか?
それから、グローバリズムを支えてる貿易・経済とか人・モノ・カネの流れをよくわかってるのは浅田の方では?「底の浅さが一瞬、露呈した」のはカッチャーリの方だろう。歴史学・経済学の勉強不足というか、ただ単にフランスと英語圏が嫌いなだけでは?浅田も絶句したほどでした。簡単に言ってしまうと、カッチャーリはバカなのです。笑止千万。

40. 第Y期批評空間・共同討議 2006/08/27(日) 23:44:34
Q:先日『映画の世紀末』を読んだが、映画とヴィデオの違いがよくわからない。ヴィデオで映画はズタズタになるが、だからこそゴダールは映画を生き返らせるとか。それらは原理的にどう違ってて、その違いが美学的にどう作用するの?

A:映画は、原理的にフィルムのコマをつないで動きの効果を生んでいる。故に、製作者にとって、一つのショットがどこからはじまりどこで終わるのか、必然的に強く意識的されざるをえない。モンタージュという発想も、ワンショット・ワンシークェンスという発想も、この映画の原理に根を持っていると言える。テレビの走査線を書き換えることで動画を表示するビデオの原理は、持続と切断に対する感性を、映画ほどには、その製作者に要求していないと言えるだろう。コストの高いフィルムに対して、回しっぱなしに出来るビデオテープというメディアが、逆に、作品を作ることの緊張感を撮影行為から奪い取ってしまうという側面もまた指摘できるであろう。ベンヤミンの言う、「アウラの喪失」というやつ。映画もフィルムという複製技術時代の文化作品なんだけどね・・・。

41. 第Y期批評空間・共同討議 2006/08/27(日) 23:50:55
Q:なるほど。でも「持続と切断」だけではないような。フィルムに実際に光を焼き付けるのとヴィデオとの違いとか。私もよくわからないけど、ヴィデオだと撮影のとき照明があまり必要ではなくなるとか。ハスミンがヴィデオを否定するというのもよくわからない。それから、アウラは関係ないんじゃない?

Q:光や照明、色彩などに関して言えば、まず、フィルム粒子の持つ独特の荒れ具合が、単なる現実の再現ではなく、ある種の触感的ニュアンスを風景に与えていることも事実だろう。映画におけるライティング技術は、そうしたフィルムの肌理や生理を最大限に生かすべく、高度に発達したものである。現像技術もまた、同様に職人的な伝統を映画史の中で築き上げてきた。また、色彩に関しても、フィルム会社や色彩再現方式によって、様々に異なるニュアンスを風景に帯びさせる。例えば、3色分解式カラーであるテクニカラーは、その大掛かりな装置と莫大なコスト、そして現在では現像所がなくなってしまったため実質上失われた技術であるにも関わらず、いまだに熱狂的なたくさんのファンを惹きつけ続けている。勿論、ハイヴィジョンやデジタル技術の進化によって、これらは次第に本来の装置抜きにシミュレートできるようになってきている。また、ビデオ再生が映像を平板なものにしてしまうというのも、すでに過去の話だ。スクリーンは光を反射し、テレビ画面は光を放つという違いも、現在では決して絶対的なものではない。ただし、映画映像独特の魅力というものは、カメラやフィルムという歴史的に存在した具体的な技術と媒体を土台にして生まれ、そして培われてきたものである以上、フィルムには歴史が備わっているということは出来るであろうし、フィルム原理主義のような態度にも、一定の意味
があると言えるかもしれない。

42. 第Y期批評空間・共同討議 2006/08/27(日) 23:53:16
A:補足するとフィルム原理主義の持つ意義とは、例えば、粗末に扱えば死んでしまう「本物のペット」を飼うことと、幾らでもリセット可能な「バーチャルペット」を飼うことの違いみたいな、ある種の「感性教育」効果がその一つとしてあげられます。

43. 第Y期批評空間・共同討議 2006/08/27(日) 23:56:24
Q:その関係はレコードとCDみたいなものですか?

A:レコード技術には余り詳しくないのですが、だいたいそんな感じだと思います。ただ、クリスチャン・マークレイのようなレコード盤に対するフェティッシュな欲望が、フィルムに対しては、かなり大がかりに共有されているとは思います。

44. 第Y期批評空間・共同討議 2006/08/28(月) 00:00:29
Q:浅田は放送大学大学院にて表象文化研究の講座を担当してたの?

A:そう。で、浅田がテキスト執筆も担当してたのは、

第6回 美術館あるいは記憶の装置
    (ルーブル美術館、テート・モダン等)

第8回 表象とメディア〜複製芸術論
    (ベンヤミン、マクルーハン、レジス・ドブレ等)

第9回 表象とその臨界
    (リベスキンド、アルトー等)

45. 第Y期批評空間・共同討議 2006/08/28(月) 00:08:36
Q:「多頭の姿と化したこの主体は、無頭の怪物と性質を同じくする。これらの怪物同士が激突し、犯し合い殺し合うカオスとしての想像界。そこに秩序をもたらすために必要なものは何か。"全員一致でただひとりを犯し殺すこと"。想像界に氾濫していた過剰なエロスとタナトスの一切を身に蒙って殺された死者は、殺されることで超越性の中に投げ出され、相互関係の平面を見おろす高みに立つ。そして、身に蒙った過剰なる力の全重量をかけて"禁止の言葉"を発する。絶対的な"他者"。そこで複雑にもつれあった相互関係の網の目は切断され、各個人はこの絶対者だけに自己を委ね同一化することになる。全員が共通の鏡に各々の姿を映し見て、そこに社会的に安定した自己同一性を見出し、相互に承認しあうことが可能となる。」

これは昔に読んだ「構造と力」の中からワードに少し採取した一部なんですが「全員一致でただひとりを殺す」とか「絶対的他者」といったくだりが具体的に何を指すのか全くイメージつきません。講釈願います!

A:フロイトの『トーテムとタブー』の下りなり。原初的な部族において部族の酋長は富と性を独占していたのだけれど、その酋長は最終的に部族の全員一致によって殺されてしまい、それが人間のエディプス期を構成する発端となった、とするフロイトの(とんでもない)仮説をベースに議論を展開してるんだね。そうやって父親殺しを行うことで、父は部族構成員の中ではじめて「父の名」のもとに掟という象徴的なものとして機能することになる。

46. 第Y期批評空間・共同討議 2006/08/28(月) 00:10:13
浅田彰×藤枝晃雄ダイアローグ
『モダニズムから遠く離れて』[美術批評の可能性]

47. 第Y期批評空間・共同討議 2006/08/28(月) 00:13:04
宮台真司vs浅田彰

アカデミックな業績では宮台の勝ち
ルックスでは宮台の勝ち
女性経験では宮台の勝ち
男性経験でも宮台の勝ち
話し言葉でも宮台の勝ち
書き言葉では浅田の勝ち
知能では浅田の勝ち
教養でも浅田の勝ち
音楽の理解・素養でも浅田の勝ち
数学の能力でも浅田の勝ち
とうぜん美術の理解・素養でも浅田の勝ち
フランス語の能力も浅田の勝ち
海外の知識人と渡り合える点でも浅田の勝ち
でも面白さでは宮台の勝ち

48. 第Y期批評空間・共同討議 2006/08/28(月) 00:14:50
宮台真司曰く、浅田彰は「天才」。でも、愚直にも言葉を生産する柄谷行人や宮台の方が生産的ですよね(少なくとも短期スパンでは)。浅田がもの書くと、すべて「構造と力」、つまり現状の暴力的な要約になってしまう。もしくは極上の教科書といったところ。宮台や柄谷のように豊かに外へは開かず、一人で完結してしまうのです。

49. 第Y期批評空間・共同討議 2006/08/28(月) 00:19:18
宮台真司曰く、

 僕はアカデミズムの世界にいました。元来、学問は、完全に反共同体的であるはずなんですよ。世間的な常識、共同体的な常識に反する結論が往々にして出てくるわけですが、学問をする人は、コペルニクスのようにその結論に殉じるんですね(笑)。そういうメンタリティーこそ学問にふさわしいのですが、日本のアカデミズムや論壇はそういうわけではないわけです。むしろ共同体の中にポジションを獲得するための活動であると言いきっていい。
             (中略)
 学会で高く評価された理論的業績で博士号を取ったにもかかわらず、全然効果がないし、日本ではそんなことありえないんですね。だとすれば、学問的な思考によって得られた理論があるとします。その理論に僕が殉じるとすれば、理論を真当に公表する以外に、むしろ理論に従った振る舞いによって世の中を引っかき回すこともいいじゃないかと思って、自分が理論の実験台になろうと決めたんです。

50. 第Y期批評空間・共同討議 2006/08/28(月) 00:20:58
浅田がかっちりした論文書けば、何の疑問もなく浅田でしょう。いまでももちろん圧勝だけど。知識量や整理能力だけでなく、レトリックや言葉の選び方も趣味がいい。

不思議なのは、宮台の『予期理論』に対する批判を、若手の社会学者がしないこと。東大の社会学の若手の優秀なのが、しないのかな。盛山さんのしか読んだことないぞ。もう『理論と方法』とかで批判されているのかな。

51. 第Y期批評空間・共同討議 2006/08/28(月) 00:22:46
東浩紀氏:「浅田さんの華麗な文章」

52. 第Y期批評空間・共同討議 2006/08/28(月) 00:24:18
ナンパでは宮台の勝ち
ゲームでも宮台の勝ち
ケンカでも宮台の勝ち
運動神経も宮台の勝ち
出身校ブランドも宮台の勝ち
社会学専門も宮台の勝ち
会社実務も宮台の勝ち
浅田より年下の割には宮台健闘

53. 第Y期批評空間・共同討議 2006/08/28(月) 00:28:05
http://www.angelfire.com/me3/meso/korekota.html

宮台氏が浅田氏について語っています。たとえば質問17番目の答えの一部は・・・
「うーん…彼についてシンパシーというか、ある種のリグレット(残念感)はあります。どういうことかというと、もし彼の登場がニューアカ以降であれば、ファッションとして消費されないで、後に続くような思想的インパクトを与えた可能性がある。それが残念です。天才だから、早すぎたんですね。」

54. 第Y期批評空間・共同討議 2006/08/28(月) 00:29:34
宮台真司vs浅田彰

宮台は政治家気質だね。革命家でもいいけど。浅田は単なる趣味人。
だから、現実問題へのコミットメントの広さと深さにおいて宮台の圧勝でしょう。

55. 第Y期批評空間・共同討議 2006/08/28(月) 00:31:27
経済学では元財務長官のL・サマーズ(実務も含め)。
文化では浅田だろうな(実技も含め)。
社会学では宮台だけど(実践も含め)。

56. 第Y期批評空間・共同討議 2006/08/28(月) 00:36:40
Q:アメリカで批評空間みたいな雑誌ないの?現代思想系で、芸術論なんかもあって、ジジェクとか有名人も書く雑誌。それから、ロメールの回の愛栗に出てきた「Trafic」って何なの?

A:今思いつくところで言えば、例えば Critical Inquiry や October。前者は比較的批評空間に近いと思う。ジジェクやジェームソンなど、アメリカの有名人が書いている(下記参照)。後者は主に芸術系を扱っていて、ロザリンド・クラウス、ハル・フォースターなど、いわゆるオクトーバー派の雑誌。ちなみに、traficは、フランスの映画雑誌で、セルジュ・ダネー等が創刊したもの。
http://www.uchicago.edu/research/jnl-crit-inq/issues/author/issuesauthor.html
http://ime.nu/www.uchicago.edu/research/jnl-crit-inq/main.html
http://www.uchicago.edu/research/jnl-crit-inq/main.html

57. 第Y期批評空間・共同討議 2006/08/28(月) 00:38:06
ボードリヤールはいかにもフランス的知識人だと言い放つ彰

『「歴史の終わり」と世紀末の世界』でも、表面的には
仲良く話しているようで、

一読すれば明らかなように、そこに見られるのは良くも悪くも実にフランス的な
知識人の姿である。極限まで暴走してゆくアイロニカルな知性と、それを包む
華麗なレトリック。そのために、かれの理論はSFめいて見えることが多い。だが、
これほど興味深いSFも珍しいのではないだろうか。こちらもまたアイロニカルな距離
をとることさえ忘れなければ、それは読む者に多くのヒントを与えてくれるように思われる。

とか書いている。

58. 第Y期批評空間・共同討議 2006/08/28(月) 00:39:57
浅田彰が選ぶ、20世紀の10冊

1.論理哲学論考 ウィトゲンシュタイン
2.城      カフカ
3.存在と時間  ハイデガー
4.雇用・利子および貨幣の一般理論 ケインズ
5.フィネガンズ・ウェイク ジョイス
6.数学原論   ブルバキ
7.毛沢東語録  毛沢東
8.エクリ    ラカン
9.ミル・プラトー ドゥルーズ・ガタリ
10.悪魔の詩  ラシュディ

59. 第Y期批評空間・共同討議 2006/08/28(月) 00:41:29
「城」はドゥルーズ=ガタリが
カフカで最も評価した作品。

60. 第Y期批評空間・共同討議 2006/08/28(月) 07:36:17
リベスキンドの希望  02*12*24                  by 浅田彰
ダニエル・リベスキンド展が12月20日から東京のインターコミュニケーション・センターで始まった。ヒロシマ賞受賞を記念して夏に広島市現代美術館で開かれた展覧会を再構成したものだ。広島で見られなかった人は行く価値があるかもしれないが、やはり広島で見てこそ意味がある(さらに言えば黒川紀章設計の広島市現代美術館のやたらと装飾的な展示空間を真っ白に塗りつぶして抽象的な空間に変えてしまったところが見どころだった)ので、現に私自身、東京での展示はまだ見ていない。幸い、遅ればせながら出来上がった広島店のカタログは、なかなか充実したもので、ペーター・スローターダイクのエッセー(他の論者が「否定神学」と言いそうなところで「Irenik[平和神学]」と言ってみせるところが面白い)などのほか、私がモデレーターをつとめたリベスキンドを囲むシンポジウムの記録も収録されているので、ぜひ一読されたい。(ついでに言えば、授賞式ばかりかシンポジウムにも姿を見せた秋葉忠利広島市長は、リベスキンドのような前衛的知識人も一目置くだけの器量を見せた。「市長とトポロジーの話ができるなんて、驚いたな」。それに対し、保守陣営は元広島カープ監督の古葉竹識を市長選挙に擁立しようとしている。広島市長は長崎市長とともに国際的な軍縮運動のリーダーとして世界で発言していかなければならないことを、政治屋たちは理解しているのだろうか。)ところで、東京展のオープニング直前、12月18日は、リベスキンドにとって重要な日だった。彼のチームを含む7つのチームのデザインしたワールド・トレード・センター跡地再開発計画案がニューヨークで披露されたのだ。実のところ、跡地を所有するマンハッタン南部開発公社は、すでに7月の段階で6つの再開発計画案を発表したのだが、凡庸なオフィス・ビルが並ぶプランばかりで、住民や犠牲者の家族からも不評を買って撤回された。かわりに、公募で集まった406案から7チームが選ばれ、さらに練り直されたプランが今回披露されたというわけだ。

61. 第Y期批評空間・共同討議 2006/08/28(月) 07:38:52
これらの案はインターネット上で公開されており、特に「ニューヨーク・タイムズ」[12月19日号]のサイトでは建築家の語る解説のついた映像も見ることができる。また、来年1月終わりまで、これらの案への賛否がネットなどで募られ、それらを踏まえて最終決定に至ることになっている。)いずれ劣らず前衛的なそれらのプランが公衆からおおむね熱狂的に迎えられたというのは、前回の事務的なプランの不評と比べて、興味深い事実である。なかでも、最初にリベスキンドがプレゼンテーションを終えたとき、発表会場は喝采に包まれたという。実のところ、リベスキンド案は7案の中で最も前衛的というわけではない。だが、まずグラウンド・ゼロの地下21mの岩床まで下降し、そこから一転して540mの摩天楼に上昇するというプランは、この建築家のほとんどダンテ的な想像力を遺憾なく示すものだ。その他、高層ビル群はみな鋭角的な輪郭をもって水晶のように林立し、かつてのニューヨークのイメージを新次元で甦らせるものとも言えよう。だが、それらの角度にはひとつの理由がある。リベスキンドは、「光の楔」という広場を設け、毎年9月11日に1機目が突入した時刻から2機目が突入した時刻まではこの広場に一切の影が差さないようすべてをデザインしたというのである。そのような形でトラウマの記憶に配慮しながら、あくまでニューヨークらしい上昇するダイナミズムに希望を託してみせたリベスキンドのプランは、象徴的にも機能的にきわめてすぐれたものと言えるだろう。むろん、かつて跡地に緑の丘(地下に埋まった地球を象徴する球体の一部とみなされる)をつくるよう提案した安藤忠雄のような見地から見れば、リベスキンド案(や他の6案)も旧態依然とした反エコロジカルでファリックな摩天楼イデオロギーに追随するものということになるかもしれない。だが、そのような常識的反省を突き抜け、どこまでも上昇してやまぬ希望の力に満ち満ちているからこそ、リベスキンドらの案はニューヨーカーたちを熱狂させたのだろう。むろん、先の見通しは厳しい。リベスキンド案が選ばれるかどうかはわからないし、どの案が選ばれるにせよ、経済的条件からして、それらがそのまま実現されることはありえない (そもそもこれはマスタープランのコンペティションであって、個々のデザインは後から決められるのだ)。意地悪な見方をすれば、これら前衛的なプランの揃い踏みは一時のデモンストレーションに過ぎず、後は再び凡庸な経済の論理がすべてを決めていくということなのだろう。しかし、ワールド・トレード・センターに替わる7つのプラン――とくにリベスキンドのそれは、実現されないとしても、21世紀最初の希望のモニュメントとして永く記憶されることになるだろう。

62. 第Z期批評空間・共同討議 2006/08/29(火) 14:29:46
そういや前、彰が歩いているの見たぞ。

グレーのTシャツを着ているのだが、上海なんちゃらというロゴの入ったトートバッグを持っていた。

ファッションセンス、もしかして変?

63. カッチャーリvs彰さん 2006/08/29(火) 14:33:31
イタリアvs日本だろ。

ちなみにカッチャーリは磯崎のことを評価していたよ。彰のことは普通に無視。あらら、嫌われちゃった。

64. 坂本 2006/08/29(火) 23:04:13
龍一関係のネタも盛り込んでくださいよ。

65. 坂本といえば 2006/09/01(金) 21:29:14
坂本ちゃんってどうなったんだ?ケイコ先生は浪曲師(?)になったらしいっす。

66. 真幸VS彰 2006/09/02(土) 06:25:22
偉大なる助教授マンセー

67. 鳥インフルエンザ 2006/09/02(土) 06:51:00
おれがMr.オクレにたいして、こいつ可愛いやつだな、小便飲ませてあげたいね、と感じるのは、たとえば、島田雅彦との対談において、ベンヤミンの『パサージュ論』を文脈にすえてヴェンダースの映画を解説する、趣味人としての感覚の確かさであるとか、あるいは、村上龍との対談なんかで、カルペンティエルの短編『バロック協奏曲』を、作品のスピード感そのままに紹介する手際の鮮やかさであるとかだな。
あんな参考書めいた、『構造と力』みたいなくだらない本をだしたやつと、同一人物とはとうてい思えないよ。あれは相当レベル落として書いたんだろうね、東大法学部に入れなかった、程度の低い京大生に合わせて。

そういえば、以前、どこかで、「宮台真司は、まじめすぎるから言うことがコロコロ変わる、だからカリスマにはなれない」という旨の発言を福田和也がしてたけれども、モダンとポストモダンのはざまで、文字どおり右往左往しちゃってるMr.オクレもまた、可愛らしいよね。小便したくなってくるよ。

68. 第X期批評空間・共同討議 2006/09/03(日) 04:08:44
浅田彰(文化貴族)≧レヴィ=ストロース(文化人類学者)+ヴェイユ(数学者)

69. ↓死ね!消えろや!! 2006/09/03(日) 04:12:59
64. 坂本 2006/08/29(火) 23:04:13
龍一関係のネタも盛り込んでくださいよ。
65. 坂本といえば 2006/09/01(金) 21:29:14
坂本ちゃんってどうなったんだ?ケイコ先生は浪曲師(?)になったらしいっす。
66. 真幸VS彰 2006/09/02(土) 06:25:22
偉大なる助教授マンセー
67. 鳥インフルエンザ 2006/09/02(土) 06:51:00
おれがMr.オクレにたいして、こいつ可愛いやつだな、小便飲ませてあげたいね、と感じるのは、たとえば、島田雅彦との対談において、ベンヤミンの『パサージュ論』を文脈にすえてヴェンダースの映画を解説する、趣味人としての感覚の確かさであるとか、あるいは、村上龍との対談なんかで、カルペンティエルの短編『バロック協奏曲』を、作品のスピード感そのままに紹介する手際の鮮やかさであるとかだな。
あんな参考書めいた、『構造と力』みたいなくだらない本をだしたやつと、同一人物とはとうてい思えないよ。あれは相当レベル落として書いたんだろうね、東大法学部に入れなかった、程度の低い京大生に合わせて。
そういえば、以前、どこかで、「宮台真司は、まじめすぎるから言うことがコロコロ変わる、だからカリスマにはなれない」という旨の発言を福田和也がしてたけれども、モダンとポストモダンのはざまで、文字どおり右往左往しちゃってるMr.オクレもまた、可愛らしいよね。小便したくなってくるよ。

70. 鳥インフルエンザ 2006/09/03(日) 04:13:35
いましがたこの板にひととおり目を通したけど、共同討議って哀しいやつだな。「興味がない俺」を装いながらも、そのじつ浅田にあこがれて、惚れて惚れて惚れ抜いて、追いかけて、追いかけて、でも哀しいかな、生まれつきの頭の悪さゆえに尻尾さえ見えない。届かないと知りつつもパラノイアックな性格がわざわいして、踏ん切りをつけることがどうしてもできない。憐れだよな。お気の毒に。
なんなら、おれの小便でも飲むか? 遠慮しなくていいぞ?

71. 第X期批評空間・共同討議 2006/09/03(日) 04:20:44
アイスラーからゲッベルスへ  02*12*24            by 浅田彰

ハイナー・ゲッベルス(1952年生)はインプロヴィゼーションから音楽劇まで幅広い活動を展開している音楽家であり、ディスクにもばらつきが多い。その中でも、最近ECMからリリースされた「アイスラーマテリアル」(1998年のベルリンでの舞台のライヴ録音)は、彼の音楽を理解する上で特に重要なものと言えるだろう。というのも、ベルトルト・ブレヒトの後継者と言われたハイナー・ミュラーのテクストによる作品で有名なゲッベルスは、ブレヒトとのコラボレーションで知られるハンス・アイスラーによって音楽に目覚めたというのである。そう言えば、彼のデビュー盤となったアルフレート・ハルトとのインプロヴィゼーションも、アイスラーの音楽を素材とするものだった。しかし、そう言われてみると、いささか意外な感じもするのではないか。アイスラーというのは、シェーンベルクに最も嘱望された弟子の一人でありながら、あえて革命的闘争のためのプロパガンダ音楽に挺身した作曲家なのだ。たとえばスラヴォイ・ジジェクは、今年出たレーニン論文集(”Revolution at the Gates”, Verso)に寄せた長大な解説で、ブレヒトの作曲家として、マルクス主義以前のカーニヴァル的諷刺の時期に対応するワイル、最も「スターリン主義的」な時期に対応するアイスラー、「円熟」した時期に対応するデッサウの三人を挙げ、最も「前衛的」な作曲家だったアイスラーがあえて「教条的」なプロパガンダ音楽を作曲したことに注目している。おそらく、フランクフルト学派の批判理論を学んでいた若き日のゲッベルスをとらえたのも、アイスラーの単純な見かけの背後に隠された複雑性なのだろう。このディスクでは、一見いかにも素朴で、ある種のノスタルジー(「東」へのノスタルジーとしての「オスタルジー」?)さえ感じさせずにはおかない革命歌の数々がフィーチャーされる一方、もっと複雑な器楽作品の編曲版やインプロヴィゼーション、そしてアイスラーのインタヴューのコラージュ(ボストンの通行人百人にハイナー・ミュラーの奇怪なテクストを読ませてコラージュしてみせたゲッベルスならではのものだ)などが間に挿入されて、多層的な構造を形作っている。ヨーゼフ・ビアビヒラーの歌は、かつてのエルンスト・ブッシュ(ジジェクはブレヒトとアイスラーとブッシュを「偉大なドイツ・スターリン主義音楽の三人組」と呼んでいる)のブリリアントなパフォーマンスと比べてどことなく心もとないけれど、それが独特の味になってもいて、母の歌う子守唄を男声で歌っているところなどはなかなか面白い。ゲッベルスとコラボレーションを続けているアンサンブル・モデルンも熱演しており、サーカスのジンタのように聴こえるところ(それがかえって感動的なのだ)も含めて、ゲッベルスの意図をうまく表現していると思う。むろん、これはできればライヴで体験すべき作品だろう。ジャン・カルマンによるいかにも彼らしいスタティックなデザインの舞台で、プレーヤーたちはコの字型に配置され、真ん中の指揮者の位置にアイスラーの小さな彫像が置かれる。それは一体どんなパフォーマンスだったのだろう。できれば一度日本でも見てみたい気がする。そう、かねてからアイスラーへの興味を示してきた高橋悠治とのコラボレーションも不可能ではないと思うのだが。

72. 第X期批評空間・共同討議 2006/09/03(日) 04:25:10
プレイアード版ジュネ戯曲全集  02*12*24               by 浅田彰

ジャン・ジュネの戯曲全集がプレイアード叢書に加わった。同性愛の泥棒作家も、ついに栄光ある文学の星座に迎え入れられたというわけだ。ジュネと言えば小説が有名だが、戯曲もまた重要な位置を占めることは、日本でも渡辺守章らによって強調されてきた通りであり、まず戯曲全集が出たというのは、その意味でも注目に値するだろう。ここには、ジュネのすべての戯曲が異なるヴァージョンも含めて収められているほか、豊富な関連資料、そして渡辺守章演出の『バルコン』を含む様々な舞台写真も収録されている。その中でも、読み直してみて面白かったのは、『屏風』をめぐるフランス議会での論争の記録である。鵜飼哲との対談「裏切りとしての愛」(浅田彰『20世紀文化の臨界』青土社)でも触れたように、『屏風』が1966年にパリのオデオン座で上演されたとき、アルジェリア戦争の文脈で反フランス的と見られたこの作品に抗議して、右翼のデモ隊(若き日のジャン=マリー・ル・ペンを含む)が劇場の内外で騒ぎを起こした(1968年の5月革命でオデオン座が占拠されたことを思うと、これは5月革命を先取りする事件だったとも言えよう)。この問題は議会でも取り上げられ、国費の助成を受ける劇場で反国家的な作品が上演されることへの批判が展開された。ジュネとはまったく違う立場(ド・ゴール政権の文化大臣!)にありながらそれに堂々と反論したのがアンドレ・マルローである。「この作品を読んだ者は誰であれ、それが反フランス的でないことをよく知っております。それは反人間的である。すべてに反対しているのです。」こう断ずるマルローは、「ゴヤが反スペイン的でないように、ジュネは反フランス的でない」と念を押した後、ジュネの作品における「腐敗」という問題に論を進め、ジュネに「腐敗」があるならボードレールにも「腐敗」があると論じて、『腐屍』の末尾を暗誦する。「『腐屍』、これは検事総長の気に入るタイトルではありませんでした、『ボヴァリー夫人』のことは言うまでもなく。」むろん、この詩を含むボードレールの『悪の華』とフロベールの『ボヴァリー夫人』が検閲の対象になったことを仄めかしているのだ。「私はジュネ氏がボードレールであると言うつもりはいささかもありません。彼がボードレールだったとしたら、我々にはそのことがわからないでしょう。その証拠に、ボードレールが天才だとは誰も知らなかったのです(笑)。」こうしてイロニーをちりばめながらあくまで検閲を拒否するマルローは、「自由は常にきれいな手をしているわけではありませんが、自由を選ばなければならないのです」という結論で演説をしめくくる。さすがにブリリアントと言うほかない。もっとも、記録を読み直すと、右翼の反対論も単純ではないことがわかる。われわれも表現の自由は重視している、だが、それを盾にとって反社会的な言説が氾濫しているのを一体どうするのか。われわれが求めるのは検閲ではない、このような作品を上演する劇場への国費助成の削減に過ぎないのだ……。こういう事実上の「検閲」こそ、現在も支配的なものにほかならない。そのような意味でも、この論争は改めて読み直す価値のあるものだと思う。もちろん、これはあくまで付録のひとつに過ぎない。1400頁を越える本書を折に触れてひもとき、ジュネならではの華麗な言葉たちがきらめきながら燃え尽きてゆくのを眩しく見つめながら、冬の夜々を過ごしたいと思う。

73. 鳥インフルエンザ 2006/09/03(日) 04:31:40
知識のないことを恥もせず開き直るやつ、引用を否定して「自分の言葉で語れ」などとほざくやつ、こういう連中もくだらねえけどさ、自分の底の浅さを引用とコピペでごまかすことしかできない、そういう人間もまた同様にくだらないよな。
しかし、まあ、量はいつか質に転化するとゆうしw 下手な鉄砲撃ちを自覚していただきつつ、はりきってどんどんやれよ。もしかしたら、浅田が見てるかもしんねえぞ(爆

74. 第X期批評空間・共同討議 2006/09/03(日) 04:34:17
ロメールの歴史紙芝居  02*12*28

エリック・ロメールが81歳にして発表した新作「グレースと公爵」が日本でも公開された。フランス革命と恐怖政治の動乱を生き抜いたイギリス人女性グレース・エリオットの回想記を映画化したもので、特にラファイエット公爵(昔の愛人で今の友人)との交流が絶妙なニュアンスをもって描き出される。だが、何といっても目立つのは、屋外のシーンがすべて、当時のパリの情景を描いた絵(それも歴史絵本の挿絵のような)との合成によって構成されていることだろう。
その結果、この映画はいかにも時代がかった紙芝居のような様相を呈することになる。そこに反時代的な面白さを見ることができないわけではない。だが、それはシネフィルが褒めるにふさわしい映画なのだろうか。2001年ヴェネツィア映画祭でこの映画に出会った蓮實重彦は、あえてフランス革命を批判するロメールの「知的放蕩ぶり」に感嘆してみせる(たとえば『知的放蕩論序説』[河出書房新社]で、「今、フランス人がフランス革命否定の映画を撮れますか。ロメールはそれを平気で撮っちゃうんだから」と言い、「反動的といえば、これほど反動的なものはないけれども面白い」と述べているところ)。しかし、実のところ、フランス革命と恐怖政治への批判は、トクヴィルからフュレに至るまで、ごくありふれたものであり、そういうラディカルな革命よりも漸進的な改革(つまりは「革命ぬきの革命」)を良しとする論調は、旧社会主義圏の崩壊と重なった革命200周年の頃から、むしろ主流になっているのだ。もっとも、そういう反革命的イデオロギーは、ロメールにとっての主要テーマではないだろう。ジャック・ランシエールが「民衆の算術」(”Trafic” no.42)で言うように、この映画が指し示すのは、「《革命》(それがロメールの関心事だったことは決してなかった)への訣別というよりも、ロッセリーニへの訣別、放浪するキャメラの自由とその場における身体の真実によって特徴付けられるある種の映画的近代性の理念への訣別」なのである(ランシエールのここでの参照基準はロッセリーニの「ヨーロッパ1951年」である)。実際、同じ年に公開されたロメールの「グレースと公爵」、ゴダールの「愛の世紀」、ストローブ&ユイレの「労働者たち、農民たち」を比較するランシエールは、ロメールが街路から撤退したのに対しゴダールがパリの街路に戻ってきたことに注目しているのだ。とはいえ、ランシエールはたんにロメールを批判してゴダールを称揚しているわけではない。民衆というテーマに即してのランシエールの整理はこうだ。ロメールの民衆を特徴付けるのは「multiplication(乗算=増殖)」であり、そこでは民衆は整然たるタブローの周辺で蠢き増殖する有象無象に過ぎない。ゴダールの民衆を特徴付けるのは「soustraction(減算=除去)」であり、そこで映し出される街路に民衆は不在なのだが、その不在こそメランコリックな「愛の賛歌」(映画の原題)が美しく歌われる条件に他ならない。対して、ストローブ&ユイレの民衆を特徴付けるのは「division(除算=分割)」であり、そこでは「分割によって定義され証し立てられる主体」としての民衆=人民が確かな言葉によって存在を与えられる(この民衆=人民概念は彼らが「マオ的・ブレヒト的時代から保持してきた」ものだ)。繰り返すが、ランシエールは三者を比較しているのであって、(暗にストローブ=ユイレを特権化しているとはいえ)良し悪しを云々しているわけでない。だが、われわれとしては、ロメールの日映画的な歴史紙芝居を称揚するシネフィルたちに抗して、それが反動的なテーマを反動的な形式で扱った反動的な映画である(また、あくまでもそのようなものとして興味深くもある)という自明な事実を強調しておきたいと思う。

75. 第X期批評空間・共同討議 2006/09/03(日) 04:40:12
ドン・デリーロの口語ミニマリズム  02*12*31             by 浅田彰

現代のアメリカ口語でたとえばカフカのような文章を書くことが可能だろうか。むろん、そんなことは不可能だ。しかし、ドン・デリーロは、今回邦訳(新潮社)の出た新作「ボディ・アーティスト」において、ぎりぎりまで無駄を削ぎ落とした簡潔な文章により、それを別の形で実現してみせたと言ってもいいだろう。前作「アンダーワールド」(邦訳:新潮社)のようにむしろマキシマルな長篇小説で知られるデリーロがこんな作品も書けるというのは、ちょっとした驚きだった。突然夫に自殺された女性(身体を使ったパフォーマンスを行なうアーティスト)は、家の中に潜んでいた不思議な男(だが、それは実在の人物か、彼女の空想か)を見つける。彼は時間の経過を認識することができないらしく、言葉の断片を奇妙な時制で口にしてみせるばかりだ。この男との会話とも言えぬ会話の中で、やがて女性も非現実的な次元へと滑り込んでいく。このあたりは大変微妙に書かれており、翻訳も特に悪くないとはいえ、やはり原語で読んでみるべきだろう――時間をかけて正確に。そう、最初にこの小説を読んだとき、私はそれをローリー・アンダーソンの朗読で聞いてみたいと思ったものだ。彼女のパフォーマンスがベケットの劇でないのと同様、デリーロの小説もカフカの小説ではない。しかし、デリーロが、ありふれたアメリカ口語を使いながら、その簡潔さと正確さによって詩的とさえ言える表現に到達したことを、それはそれとして評価しておきたいと思う。ちなみに、これとほぼ反対の性格をもつ作品に触れておこう。ジョン・アップダイクの新作「Seek My Face」(Knopf)だ。ここでは、ホープという78歳の女性アーティストが27歳の女性インタヴュアーに応えて饒舌に過去を語り続ける。ホープの最初の夫だったザック・マッコイはジャクソン・ポロック、ホープ自身はリー・クラズナー(但し後半生はやや現実と離れる)をモデルにしており、他にもバーニー・ノヴァことバーネット・ニューマンをはじめ、戦後アメリカ美術の旗手たちが次々に登場して、ホープのざっくばらんな回想の対象になる。アップダイクの筆は達者そのものだし、美術批評も書くだけに美術史についての知識も的確で、女たちのおしゃべりを楽しみながら戦後アメリカ美術の裏面史を知ることができるというわけだ。もちろん、そこに人生や美術に関する本質的な洞察を求めても裏切られるだけだが、その饒舌は、抽象表現主義が熱く燃えていた頃のアーティストたちのエネルギーを、間接的にではあれ伝えてくれるように思われる。

76. 第X期批評空間・共同討議 2006/09/03(日) 04:46:19
>鳥インフルエンザ
お前の書き込みって端的につまんねえー。
お前の書き込みって端的に面白くねえー。
お前の書き込みって底が浅すぎるんだよな。
お前の書き込みってバカ丸出しだねwww
お前の書き込みってファミレスで9時間も粘ってる
おばさんたち(高卒短大卒)の雑談みたいで哀れwww

77. 鳥インフルエンザ 2006/09/03(日) 04:48:48
そうかなぁw おれほどチャーミングな書きこみする人も少ないと思うんだけどw

ま、そう熱くなるなよ。浅田が見てるかもしんねえぞw

78. 第X期批評空間・共同討議 2006/09/03(日) 04:49:35
鎌倉のリアリズム?  03*02*05                  by 浅田彰

亡父は京都で医学を学んだが、旧制高校文化の名残と言うべきか、いろいろな学部の学生たちとサークルをつくり、古美術の探訪に明け暮れたようだ。美術史家の森暢(そしてブレヒトの翻訳劇や溝口の映画などで活躍した女優の毛利菊枝夫人)を囲むそのサークルの活動は、この碩学が死ぬまで40年以上も続き、私も少年時代に何度か参加したことがある。特に印象的だったのは新護寺の曝涼(虫干し)だ。森暢の最大のテーマは「鎌倉リアリズム」であり、その解説を聞きながら「平重盛像」「源頼朝像」「藤原光能像」を間近に眺めるというのは、贅沢な体験だったと思う。マルローが「重盛像」を評価したのに対し、やはり「頼朝像」のいかにも武士らしいシャープな輪郭の方に軍配を上げたいというのが率直な感想だったが、もうひとつの「光能像」も、貴族的な風貌といい、袖口などにのぞく赤のアクセントといい、なかなかの出来映えではある。東京国立博物館でたまたまこの「光能像」が展示されていたのを見て、私は初夏の神護寺の記憶を呼び覚まされる思いだった。もっとも、これらの絵の像主(モデル)は確定しているわけではない。「神護寺略記」という文書をみると神護寺仙洞院に藤原隆信の描いた後白河法皇・平重盛・源頼朝・藤原光能・平業房の図像があったと書かれており、問題の三点がそのうちの重盛像・頼朝像・光能像にあたると推定されてきたのだ。森暢の『鎌倉時代の肖像画』(みすず書房)もその立場をとっている。ちなみに、後の五味文彦(『院政期社会の研究』山川出版社)らの研究によると、平安時代にヘテロセクシュアリティが支配的だったのに対し、院政時代は(男性の)ホモセクシュアリティが顕著であり、後白河法皇の滞在する仙洞院には、法皇の肖像を中心に、彼の寵愛を受けた男性四人の肖像を並べたのだとも言われる(むろん法皇には女性の愛人もたくさんいたが)。興味深い仮説ではある。だが、そもそも問題の三点が仙洞院の五点の一部だったという証拠はない。そこから、米倉迪夫(『源頼朝像』平凡社)は、これら三点を一時代新しいものとし、「平重盛像」「源頼朝像」「藤原光能像」は実は「足利尊氏像」「足利直義像」「足利義詮像」であると推論した(直義は尊氏の弟、義詮は息子)。素人目で見ても、これは多くの傍証を踏まえた説得力のある推論だ。とはいえ、所詮、決定的な実証は不可能である。私としてはやはり問題の三点を「重盛像」「頼朝像」「光能像」とみなし、そこから院政時代の波乱の歴史に思いを馳せたいと思う。さて、今年のゴールデンウィークには久しぶりに神護寺の曝涼に行ってみようか。

79. 鳥インフルエンザ 2006/09/03(日) 04:52:17
ま、共同討議大先生のコピペには、勉強させられることも多々あるし、どんどん続ければいいじゃん。参考にさせてもらうよ。

でも、たまにご自分の意見を述べるときがあるでしょう。あれはやめてほしい。コピペだけしてればいいよ。君の意見なんざだれも興味ないからw

80. 第X期批評空間・共同討議 2006/09/03(日) 04:53:07
>77
べつに浮遊してるのはいいんだけど、このスレにくるなよなw

81. 鳥インフルエンザ 2006/09/03(日) 04:58:44
そうそう、そうやって頭を冷やしたほうがいいよ。興奮しちゃだめだよ。まんざら白痴というわけでもないんだろうから。

ちなみに、きてほしくないのはわかるけどさ、おれはフツウにくるけどね。大先生にもっといろいろご教授願わないと。

82. 第X期批評空間・共同討議 2006/09/03(日) 05:04:43
クールベのレアリスム?  03*02*05                  by 浅田彰

大阪市立美術館で開かれているクールベ展は、19世紀を代表する画家の一人の展覧会としてはいかにも物足りない内容だ。日本各地にある作品を40点ばかりかき集め、フランスなどから30点ほど付け足しただけ。また、近年の流行に追随したテーマ別の編成も恣意的だし、「権力としての男」「モデルとしての女」「標的としての鹿」「所有物としての自然」というテーマそのものがいかにも浅薄と言うほかない(英雄気取りのナルシストだった画家が、それゆえに政治にかかわって破滅した?彼にとって女性や自然は所有の対象に過ぎなかった?)。展覧会の監修者でありカタログのエッセーの執筆者でもある井出洋一郎は、リオタールやラカンらの理論を参照したと言うのだが、そうやって下手に流行を追うよりも前に必要なことがたくさんあるはずだ。そう、T.J.クラークのすでに古典的とも言えるクールベ研究とその反響が十分に紹介されなかったことは、日本における19世紀美術史研究の大きな欠落であり、クールベのレアリスムから印象派を経てポスト印象派に至るメインストリームがきちんと捉え返されないまま、いたずらに官展派を再評価したり装飾美術を過大評価したりといったリヴィジョンに明け暮れたあげく、美術史は趣味的な断片の散乱へと解体されてしまったのである。そして、いまやクールベ自身がそのようなリヴィジョンの対象になるというわけだ。とはいえ、今回のクールベ展にも、面白い見所はある。たとえば、パリ・コミューンの指導者の一人として投獄されスイスに亡命した画家が、記憶のブロックを合成するようにして故郷の風景画を描いているところは、彼の「レアリスム」のありようを考え直す上でなかなか興味深い。さらに言えば、ホームレスの人たちを追い出すために有料化されたらしい天王寺公園(彼らの青いテントで囲まれている)の中の美術館でクールベ展を見るというのは、プルードンの親友でもあったこの社会派の画家にふさわしいことなのかもしれない。そもそも、パリのオルセー美術館の一階中央には「オルナンの埋葬」や「画家のアトリエ」をはじめとするクールベの大作群が並んでいるが、そこでも、近代の出発点をドラクロワ/1830年革命に見るか(ジスカール・デスタン)クールベ/1848年革命に見るか(ミッテラン)というのがきわめて政治的な問題だったことを忘れてはならないだろう。そんなことを考えながら、この偉大な画家をもっとまともな形で見直す機会を待ちたいと思う。

83. 第X期批評空間・共同討議 2006/09/03(日) 05:14:33
デリダと「ならずもの」  03*02*05                  by 浅田彰

ジャック・デリダの新著『ならずもの』(ガリレー社、2003年)は2002年夏の二つの講演を収録したものだが、それでも200頁を超えるヴォリュームなのだから、今さらながら驚かずにはいられない。タイトルの「ならずもの」(voyou)というのは、もちろん、アメリカがイラクなどを指して言う「ならずもの国家」(rogue state)から来ている。だが、デリダによれば、神や王の生殺与奪の権力を引き継ぐ「主権」というものの定義からして、すべての「主権国家」は「ならずもの国家」である(当然、アメリカも「ならずもの国家」であるが、ノーアム・チョムスキーの列挙するような事実関係においてのみそうなのではない)。その意味で「ならずもの国家しかない」。しかし、どの国家も多少ともならずものなのだとしたら、とりたてて「ならずもの国家」と言うべきものは存在しないことになるのではないか。デリダはこの論理を「正当であると同様に安易でもある誘惑」として斥ける。けれども、冷戦後、絶対的脅威がもはや国家的形態をとらなくなったという意味において、やはり「ならずもの国家はもはやない」と言わなければならない。それにもかかわらず、テロを支援しているとされる特定の国家を「ならずもの国家」と呼び、それを「対テロ国際戦争」の標的とする修辞の濫用(軍事力の濫用は言うに及ばず)――その虚栄と無益を、デリダはするどく批判するのである。こうして、デリダは「ならずもの国家しかない、しかし、ならずもの国家はもはやない」という結論に到達するだろう。「主権国家」の時代のリミットにおいて露呈されたこの隘路に直面して、デリダは、「主権」と(権力なき正義の)「無条件性」の間の脆弱でありながらおそらく不可欠な区別を提起し、「国家」という制度そのものの脱構築を目指すことになる。その議論があまりに迂遠で具体性を欠くように見えることは確かだ。しかし、デリダというひとりの哲学者が、彼の哲学の中心的な問題と現代世界のアクチュアルな問題を直結させて真摯な思考を展開していることは、やはり注目に値するのではないだろうか。いや、それだけではない。最近邦訳されたエリザベート・ルディネスコ(精神分析家で、『ジャック・ラカン伝』の邦訳[河出書房新社]があるが、冒頭から誤訳のオン・パレードで、たとえばラカンの所有していたクールベの「世界の起源」が女性器ではなく男性器を描いたものとされているのだから恐ろしい)との対話(『来たるべき世界のために』岩波書店)でも新著につながるような議論が展開されているが、そこで九章のうち一章が死刑廃止論に割かれているのをみても、デリダがある面ではきわめて具体的な政治課題を考えていることがわかるだろう。早い話が、アメリカ等と並んでいまだに死刑を行なっている国家(「ならずもの国家」?)の国民であるわれわれにとっても、それは決して現実離れした抽象論ではない。

84. 鳥インフルエンザ 2006/09/03(日) 05:17:15
>共同討議さんへ。
ごめん。ふと気づいたんだけど、君がこのままいまの調子で引用だのコピペだのを続けた場合、あたかも君がおれのマリオネットと化して、いいように操られてるような、そんな印象を見るものに与えかねない、という感じがするんだよね。
だから、このへんでガツンとおれに歯向かったほうがいいと思うんだけど、このアイデアどう思う?

85. 第X期批評空間・共同討議 2006/09/03(日) 05:23:36
ボードリヤールとテロリスト  03*02*05                 by 浅田彰

2001年9月11日のニューヨークでテロの直後、私はジャン・ボードリヤールの世界貿易センター(WTC)論を思い出し、それについて「批評空間」のサイトの「Web Critique」に小文を書いたことがある。1970/72年に建ったミノル・ヤマサキ設計のWTC――象徴性を消去すべく端的に反復される裸の直方体は、無駄な要素をできるだけ排除して簡潔なデザインを目指すというモダニズムの原理の教科書的な応用例と言えるだろう。このモダニズム建築に、現実原則からシミュレーション原則への転換という意味でのポストモダニズムを見てとったのが、『象徴交換と死』(原著1976年)のボードリヤールである。それぞれに個性をもつ古い摩天楼が、経済的な競争の中で他者と競い合い自己を乗り越えてゆく努力の象徴だとすれば、WTCの二つのタワーは、互いのモデルかつコピーであり、地上の現実とは隔絶した次元で相互に反映し合っているばかりだ、というのである。「WTCの二つのタワーは、正方形の土台の上に立つ高さ400mの完全な直方体であり、完璧にバランスのとれた、窓のない通底器である。このような二つのまったく同一の建築が向かい合って存在するという事実は、一切の競争の終わり、オリジナルなものへの一切の準拠の終わりを意味する。[…]記号が純粋であるためには、それ自体の内部で二重化がおこなわれる必要がある。この記号の二重化が、記号の指示するものの存在に真に終止符を打つのだ。[…]他の摩天楼のそれぞれが、つねに恐慌と挑戦の中で自己を乗り越えてきたシステムの各々の時期を表わしているのに対し、WTCの二つのタワーは、二重化の眩暈の中でひとつのシステムが閉ざされたことの明らかなしるしなのである。」そう、WTCはボードリヤールにとってシミュレーションの時代の到来を告げるハイパーリアルな(反)モニュメントだったのだ。そのWTCの二つのタワーが、ハイジャックされた旅客機に相次いで突っ込まれ、あっけなく崩壊する。まだモース/バタイユ的な贈与――わけても死の贈与にシステムの壊乱の可能性を見ていたかに見える『象徴交換と死』のボードリヤールなら、このカミカゼ攻撃にそうした「無用の否定性」のラディカリズムを見ただろうか。あるいは、それ以後そのような否定性に賭けることもやめ、湾岸戦争の際も『湾岸戦争は起こらなかった』(原著1991年)という本を書いてのけた現在のボードリヤールなら、今回のテロさえも専らメディア効果を狙ったシミュレーション時代のハイパーリアルなノン−イヴェントに過ぎないと強弁してみせるだろうか。事件直後に書いた『テロリズムの精神』(2002年)に続く第二弾『パワー・インフェルノ』(2002年)の冒頭でボードリヤールは『象徴交換と死』のWTC論に戻ってみせるのだが、実際、それに続く議論を読むと、ボードリヤールはあの時代の「無用の否定性」への賭けに回帰したかのように見える。そもそも、このテロ事件のとりあえずの(つまり政治・経済・社会的な具体的分析に入る前の)特徴付けとしては、世界資本主義のニヒリズムと、それが生み出した鬼子であるテロリストのニヒリズム、この「二つのニヒリズムの離接的綜合」――カントをもじったドゥルーズをもじったバディウの表現(『リーニュ』08号)を借りるなら――というのが、妥当な線だろう。

86. 第X期批評空間・共同討議 2006/09/03(日) 05:26:04
[続き]もっと具体的には、フィリップ・ミュレーが『親愛なるジハード戦士たちへ』で述べている通りだ。あなたたちは私たちが生み出した、あなたたちのラディカルさは私たちの無関心のネガなのだ、と論ずる彼は、さらに言う。「あなたたちに私たちは殺せない、私たちはすでに死んでいるのだから。[…]私たちはあなたたちに勝つだろう、私たちはあなたたち以上に死んでいるのだから。」最近のボードリヤールのものだとしてもおかしくない言葉である。ところが、ボードリヤールはそれを引用しておきながら真っ向から否定し、受動的なニヒリズムと能動的なニヒリズムを区別するかのように、たんなる消尽に過ぎない「私たち」の凡庸な死と象徴的な賭けとしての「彼ら」の美しい死を区別する。そして、9月11日の事件を、「一般化された交換のシステムの中に突如として不可能な交換――出来事そのものの只中における死という不可能な交換――の領域を創造するもの」と評価するのである。それにしても、このテロは世界最大の芸術作品だというカールハインツ・シュトックハウゼンの発言を道徳や美学を超えた純粋な出来事の「美学への回収」として批判しながら、「テロリズムのおかげでそれは世界で最も美しい建物――実在していた時には確実にそうではなかったものとなった」と言ってのけるボードリヤールは、同じ程度に悪しきロマン主義に汚染されていると言うべきではないか。そう、『湾岸戦争は起こらなかった』という「ゼロ仮説」からこの「極大仮説」への転回は、バタイユ主義――というより単純なロマン主義(死の、そして死を恐れぬ「彼ら」の美化)への退行によってしか説明することができないのである。ちなみに、ジャック・デリダは、最近翻訳の出たエリザベート・ルディネスコとの対話『来るべき世界のために』(原著2001年)で、バタイユの「至高性」のうちにヘーゲル的な「主権」の脱構築のきっかけを見た『エクリチュールと差異』(原著1967年)における自らの議論に対し、きわめて強い留保を表明している。ボードリヤールの無批判なバタイユ主義への回帰と比べるとき、あまりに鮮やかな対照と言うべきだろう。

87. 鳥インフルエンザ 2006/09/03(日) 05:30:27
ジャン・ボードリヤールが、『象徴交換と死』において蕩尽や刺青や落書などについて論じる、その詩的ヴィジョンのすばらしさとか、シミュラークルが織りなす高度資本主義社会のイメージの凄みたるや、言うまでもなく圧倒されるんだけど、そんなもん、ブックオフでちくま文庫買って読めばいいだけの話じゃん。賞味期限も切れてるしさ。東浩紀じゃねえけど、コジェーブだの、フクヤマだの、どうでもいいよ。

88. 第X期批評空間・共同討議 2006/09/03(日) 05:35:37
1.良かれ悪しかれ、俺は批評空間ブランドとして、このサイトで皆さんに認知されてる。
2.今さら、鳥インフルエンザさんがどうこう言っても、大した影響ないでしょう。
3.また、今から俺が妙な発言したところで、ほとんどインパクトも成果もない。
4.俺はこれまでどおり自己流で批評空間活動しますから、よろしく。

89. 第X期批評空間・共同討議 2006/09/03(日) 05:40:49
事故の博物館を超えて  03*02*05                  by 浅田彰

蔡国強からの年賀状に「ポール・ヴィリリオさんと仕事をしていて、浅田さんのことをよく話します」と書いてあったので、どんな仕事だろうと思っていたら、どうも、パリのフォンダシオン・カルチエでヴィリリオの企画した「起こること」(Ce qui arrive)という展覧会に彼も参加しているらしい。まだカタログを読んだだけで会場は見ていないのだが、もともと「事故の博物館」というコンセプトを温めてきたヴィリリオだけに、今回もおおむねそのコンセプトに基づく展示が展開されているようだ。実は、私も、このコンセプトに基づき、ヴィリリオのインタヴューも含むTVプログラム「事故の博物館」(NHK:1989年3月21日放映)をラディカルTV(原田大三郎&庄野晴彦)と製作したことがあり、1986年1月28日のスペースシャトル・チャレンジャーの爆発で始まる(しかし後半はコンピュータ・ウイルスなどのもたらす新しい事故に焦点を移してゆく)プログラムの取材のためにケープ・ケネディを見て回ったことがある。それだけに、去る2月1日のスペースシャトル・コロンビアの空中分解事故は、特にショッキングなニュースだった。あれほど悲劇的な事故が、あれほど美しくも晴れやかな映像となって現れるとは!そう、事故はこのようにしていかなる博物館の企画をもやすやすとすりぬけてゆくのである。それにしても、1981年4月12〜14日の初飛行以来、コロンビアが28回もの飛行を重ねてきたというのは、反復使用こそスペースシャトルのコンセプトだとはいえ、やはり驚くべきことではないか。そういえば、最初の着陸の時は、機体がはるか上空に黒い点のように見え始めたところから着陸にいたるまでえんえんとTV中継が続き、NASAに映画的センスのある人間がいてそれをワン・ショットで撮り切っていたら映像史的事件になっただろうと蓮實重彦に言わしめたほどだった。機体が着陸したときの「Welcome home, Columbia. Beautiful! Beautiful!」という管制官の華やいだ歓声は、今も耳についてはなれない。美しくも悲劇的な今回の事故の映像を見ながら、私は思いがけず不吉なアイロニーを帯びることになったその言葉を脳裡で反響させていた。

↑あの、事故原因そのものは単純な(工学的)ミスなんだけどね、あとで判明したけど。

90. 第X期批評空間・共同討議 2006/09/03(日) 05:43:21
A氏:しかし浅田氏は相変わらずの目利きですなあ。。。
B氏:そういうこと。

91. 鳥インフルエンザ 2006/09/03(日) 05:43:25
>88
なにをおっしゃいますやら。おれは最大限に君の活動に敬意を表してるじゃんw。
でも、ほら、大衆というのは得てして無能かつ無責任なものだから、もしかすると「おやおや? 共同討議大先生が、鳥インフルエンザなんぞと抜かす新参者にサンドバックにされてんぞ?」などといった、れっきとした真実に気づきかねないじゃん。おれはそれを心配してるんだよね。父親のような気持ちで。

92. 第X期批評空間・共同討議 2006/09/03(日) 05:50:47
黒沢清の『アカルイミライ』2003.02.18.                  by 浅田彰

黒沢清の『回路』(2000年)は、キャスティングから来る制約を抱えていたにもかかわらず、なかなか面白い映画ではあった。特に、最後、文字通りゴースト・タウンと化した東京を舟で脱出するシーンは、徹底して先の見通しが立たないこと、言い換えれば徹底して開かれていることにおいて、すでに「アカルイミライ」と言うにふさわしい雰囲気を湛えていたと思う。それに続く新作『アカルイミライ』が遅まきながら関西でも公開された。二四歳の仁村(オダギリジョー)は、ややもすれば暴発しそうになる暴力性を、職場の先輩である二七歳の守(浅野忠信)からのサインによって押さえていたのだが、全共闘世代に属する社長を自分が殺す前に守が先回りするかのように殺し拘置所で自殺してしまった後、守の父(藤竜也)のもとに身を寄せる。仁村は守から飼育を引き継いだ猛毒のアカクラゲを逃してしまうのだが、アカクラゲは東京の川で繁殖して海に向かい、守よりさらに若い高校生達もゲバラのTシャツを着て町を闊歩する。彼らにはアカルイミライが開けているだろうーーーカフカ風に言ってそれが我々にとって未来ではないにせよ。このようなストーリーはあくまで口実に過ぎないとしても、何より世代間(父子間)のディスコミュニケーション・葛藤・宥しといった安易なテーマを安易に扱っているところ(たとえば守の父が仁村とその世代を「宥す」シーン)が気になるし、高校生たちにゲバラのTシャツを着せるところもちょっとした思いつきにしては思わせぶりが過ぎて見える。他方、ディジタル・ヴィデオ・キャメラで撮影された暗めの映像は見事な効果を上げている。拘置所の面会室(現実には有り得ない不思議な空間)のシーン、床下に水が溜まっていてアカクラゲがぼーっと光っているシーン、その他、忘れがたいシーンがいくつもあるし、車の運転席と助手席の人物をわざと黒みで距てて並べる手法なども効果的だ。むろん難点もある。北村道子の衣装は浅野忠信仕様に徹するあまり他の登場人物(特に藤竜也)には合っていない。パシフィック231(蓮實重臣&三宅剛正)の音楽はとぼけたユーモラスな味を狙って単にとぼけたものになってしまっているし、いずれにせよ映画とまったく合っていない。そうした難点にも関わらず、この映画が形式面で黒沢清ならではのクオリティを持っていることは確かだ。それだけに、内容面での世代論的な構図が妙にわかりやすい(悪くすると疑似精神分析的な)準拠枠としてこの映画を縛っていることが、いかにも残念に思われるのだ。『回路』のようなもっともらしい説明の余地のない映画を『アカルイミライ』の様なキャスティングで撮れば、きっと素晴らしい映画が出来ると思うのだが。

93. 第X期批評空間・共同討議 2006/09/03(日) 05:55:32
ベルジェのポルトレ 2003.02.18.                    by 浅田彰

『日々は過ぎ行き、私はとどまる』(ガリマール刊)と題するピエール・ベルジェの新著はちょっとした驚きだった。イヴ・サン・ローランを支えて一大ファッション帝国を築き上げたことで知られるこの経営者が、やや古風とはいえかくも見事なポルトレ(英語で言えばポートレート)を書くことのできる文人だったとは!ここには、コクトーからミッテランをへてメイプルソープに到るまで、ベルジェと親交のあった20人あまりの人物のポルトレが納められているが、いずれ劣らぬ逸品と言ってよい。例えばメイプルソープのポルトレは、2頁にも満たぬ長さでありながら、この写真家の撮ったポートレート写真さながらの鋭く整った輪郭を備えている(リーフェンシュタールと比較するところなども、コクトーをウォーホルやゴダールの父と見なすところと同様、ちょっと意外なようで実に適切だ)。同じくAIDSで逝ったヌレーエフの「美しく傲慢な顔」に触れつつ「軽い兎唇」に言及するところや、ウォーホルが禿で三つのカツラを使い分けていた(短いものから長いものに変えていくことで髪が伸びているかのように見せる)ことを明かしてしまうところなど、意地悪なくらい鋭い観察眼も縦横に活かされている。ベルジェ自身はそこでは目に徹しているかのようだが、若い頃の思い出が漏らされているところもあって、それがまた面白い。18歳のベルジェは20歳のビュッフェと恋に落ちる。二人は二度目に会ってもうホテルに行き(そこにいた女性は、もとはプルーストの家政婦で、やがてラヴェルの家の管理人になったという)、やがて共に暮らすべく南仏に旅立って、ジオノのもとに一年間身を寄せていたこともあるらしい(このジオノのポルトレがまた愛情に満ちたものだ)。併し、若い情熱は長くは続かず、ベルジェが最初は確信したビュッフェの天才も速やかに画家を見捨てる。ビュッフェと別れたベルジェは、何年たっても同じ様式を繰り返し、日本人のファンしかいなくなったがかを、遠くからじっと見守るばかりだ。そして、画家が2000年を前に自殺した後、それは「単に天才がずっと前から彼を捨てていたため、もう描けないとわかったからではないか」と自問するのだ。愛情に満ちてしかも冷徹なこれらのポルトレは、筆者であるベルジェ自身のポルトレをネガとして浮かび上がらせるものとも言えよう。そこに欠けている文書があるとしたら、昨年遂にファッション界の第一線を退いたサン・ローランのポルトレだろう。だが、冒頭に記された「イヴ・サン・ローラン」という献辞こそ、いかなるポルトレよりも雄弁な証言であるということなのかもしれない。

94. 第X期批評空間・共同討議 2006/09/03(日) 05:57:55
Q:彰さんのファッションが素敵と思うのは私だけですか?
A:いえ、もちろん全員ですよ(笑)。

95. 第X期批評空間・共同討議 2006/09/03(日) 06:01:56
Q:ブランショの文章って、格調高くて好きだけどな。。バタイユなんかより全然、上だと思う。
浅田さんはどう思いますか?
A:フランス語勉強して下さい。

96. 鳥インフルエンザ 2006/09/03(日) 06:02:05
共同討議さんって、じつに奥ゆかしい青年だよなぁw ご自分がいかに愚直な存在であるかという足場を、つねに見据えておられる。
またお会いしましょう。わかりあえる日を信じて。

97. 第X期批評空間・共同討議 2006/09/03(日) 06:04:47
Q:デリダもドゥルーズもレヴィナスもみんな、ブランショの事尊敬していますよ。
浅田さんはどう思いますか?
A:いいんじゃないですか。

98. 第X期批評空間・共同討議 2006/09/03(日) 06:09:56
1972年、サドを特集した『ユリイカ』の4月号を、15歳の少年[浅田彰]が興味本位で手にする。思ったほどエロティックな内容ではなかったけれど、なかなか面白い。とくに、柄谷行人(この名前は一体どう読むのか?)という人の「サドの自然概念に関するノート」は、異様に明晰なのに、安易な理解をはねつけるところがあって、どうも気になる……。もちろん、少年−−つまり私は、後に柄谷行人と『批評空間』の編集委員を務めるようになろうとは夢にも思っていない。

↑東さんも他の人も(俺も)柄谷氏や浅田氏と一緒に仕事することになろうとは夢にも思ってなかった。教わる学生さんにしても超一流文化エリートに遭遇することの意味がよくわかってない(とくに学部生)。

99. 第X期批評空間・共同討議 2006/09/03(日) 06:12:27
そんな事より、ちょいと聞いてくれよ。
スレとあんま関係ないけどさ。
昨日、大学の講演会行ったんです。大学の講演会。
そしたらなんか人がめちゃくちゃいっぱいで座れないんです。
で、よく見たらなんか立て看板に浅田彰講演って書いてあるんです。
もうね、アホかと。馬鹿かと。
お前らな、アキラ如きで普段来てない大学の講演会に来てんじゃねーよ、ボケが。
アキラだよ、アキラ。
なんか親子連れとかもいるし。一家4人で大学の講演会か。おめでてーな。
よーしパパ脱構築しちゃうぞー、とか言ってるの。もう見てらんない。
お前らな、俺の「構造と力」やるからその席空けろと。
アキラの講演会ってのはな、もっと殺伐としてるべきなんだよ。
隣の席に座ったイタイ院生といつ口論が始まってもおかしくない、
論破するか論破されるか、そんな雰囲気がいいんじゃねーか。女子供は、すっこんでろ。
で、やっと座れたかと思ったら、隣の奴が、スギゾ=パラノがどうの、とか言ってるんです。
そこでまたぶち切れですよ。
あのな、スギゾ=パラノがどうのなんてきょうび流行んねーんだよ。ボケが。
得意げな顔して何が、スギゾ=パラノがどうの、だ。
お前は本当にスギゾ=パラノを論じたいのかと問いたい。問い詰めたい。小1時間問い詰めたい。
お前、スギゾ=パラノがどうのって言いたいだけちゃうんかと。
アキラ通の俺から言わせてもらえば今、アキラ通の間での最新流行はやっぱり、
CASSETTE BOOK休業、これだね。
CASSETTE BOOK休業。これが通の愛読書
CASSETTE BOOK休業ってのは本本堂からの出版だがいまや絶版。そん代わり坂本龍一との共著。
で、それにヘルメスの音楽。これ最強。
しかしこれを頼むと次から京大の音系サークル員にマークされるという危険も伴う、諸刃の剣。
素人にはお薦め出来ない。

100. 鳥インフルエンザ 2006/09/03(日) 06:18:50
>99
ほんとは君と仲良くしたいんだけど、『ヘルメスの音楽』は違うと思うね。ああいう文章を書くととたんにだめになるのが、浅田ちゃんなんだよ。
グールドの金髪がどうしただの、フランシス・ベーコンの反復がどうしただの、あまっちょろい文章書きやがってw という如何ともしがたい怒りが、おれにはないw でもダサいとは思うw

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