浅田彰 第3章
1. 第X期批評空間・共同討議
2006/09/03(日) 06:39:38
前スレ
浅田彰 第1章
http://kyoto-u.com/lounge/discuss/html/200212/02120026.html
浅田彰 第2章
http://kyoto-u.com/lounge/discuss/html/200608/06080032.html
研究書の原典 本質がわかる研究書
チャート式シリーズ
1.チャート式の伝統が生んだ本格派の研究書
2.教授が選んだ研究書No.1の実績
3.基礎から先端研究まで対応可能な詳しい解説
4.信頼できる豪華な執筆陣(例:浅田彰)
コピペを生かしたビジュアルな解説
わかりやすい批評オリジナルの図表
教授が選んだ研究書No.1の実績が示す
チャート式シリーズが
新制度の内容でラインナップも新たに
研究書の背景をわかりやすく解きほぐします。
実績のチャート式シリーズ
▼社会科▼
・数理経済学T・U
・現代社会学T・U
・政治思想史T・U
▼文化芸術科▼
・現代音楽論A・B
・現代建築論A・B
・現代美術論A・B
・現代映画論A・B
・現代演劇論A・B
・表象文化論A・B
・身体表現論A・B
浅田彰 第1章
http://kyoto-u.com/lounge/discuss/html/200212/02120026.html
浅田彰 第2章
http://kyoto-u.com/lounge/discuss/html/200608/06080032.html
研究書の原典 本質がわかる研究書
チャート式シリーズ
1.チャート式の伝統が生んだ本格派の研究書
2.教授が選んだ研究書No.1の実績
3.基礎から先端研究まで対応可能な詳しい解説
4.信頼できる豪華な執筆陣(例:浅田彰)
コピペを生かしたビジュアルな解説
わかりやすい批評オリジナルの図表
教授が選んだ研究書No.1の実績が示す
チャート式シリーズが
新制度の内容でラインナップも新たに
研究書の背景をわかりやすく解きほぐします。
実績のチャート式シリーズ
▼社会科▼
・数理経済学T・U
・現代社会学T・U
・政治思想史T・U
▼文化芸術科▼
・現代音楽論A・B
・現代建築論A・B
・現代美術論A・B
・現代映画論A・B
・現代演劇論A・B
・表象文化論A・B
・身体表現論A・B
2. 第X期批評空間・共同討議
2006/09/03(日) 06:43:34
信頼のチャート式 解法と演習シリーズ
▼思想科▼
・解法と演習 新『構造と力』T
・解法と演習 新『逃走論』T・U
・解法と演習 新『批評空間』T・U・V
▼思想科▼
・解法と演習 新『構造と力』T
・解法と演習 新『逃走論』T・U
・解法と演習 新『批評空間』T・U・V
3. 第X期批評空間・共同討議
2006/09/03(日) 06:48:08
浅田彰の講義は、誰が見たって抜群にいいと思うけどね。
おれ、駒場で開かれた、フォーサイス関連のモダンダンスの講義を
受けたことがある。あれは、本当に感動した。
おれ、駒場で開かれた、フォーサイス関連のモダンダンスの講義を
受けたことがある。あれは、本当に感動した。
4. 第X期批評空間・共同討議
2006/09/03(日) 06:50:54
『構造と力』『逃走論』『ヘルメスの音楽』『「歴史の終わり」と世紀末の世界』『映画の世紀末』『20世紀文化の臨界』『批評空間』を編集した浅田彰に比肩する社会学といえば、川島武宜編集 法社会学講座(岩波書店)1972 3巻&4巻 法社会学の基礎、それに小室システム理論だろうな。
5. 第X期批評空間・共同討議
2006/09/03(日) 06:53:06
マルクス的に云うと、社会の半分以上は経済が決定しているんだから、社会学なんてセラピーにしかならないの。それはデユルケムからずっとそうです。アメリカに行ってニュートラルにはなったけど。大体、社会学は四象限が好きで、最近は宮台、宮崎、西部までみんなそうだけど、そんなんで社会が分かるはずない。要するに、ダメな学問。大体、宮台も大澤真幸も、オウム心理強にショック受けてるんですよ。しかし、ショックなんて受けてどうすんの。バカかって。大澤なんて、顔が林家ぺーに酷似してるし。宮台は、社会学の病を負ってる感じ。全部自分がリードして、システム化しないと気が済まないっていう。
6. 財務省主計局
2006/09/03(日) 06:56:59
無限大のゼロ記号=天皇&皇后両陛下&皇太子殿下
・
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・
10万円札=浅田彰(文化貴族)
9万円札=歴代首相(例:西園寺公望)
8万円札=福田赳夫(旧大蔵省主計局長→事務次官→首相)
7万円札=福井俊彦(日銀総裁・4冠王)
6万円札=歴代最高裁判事
5万円札=小和田恒(元外務次官・国際司法裁判所判事)
4万円札=森鴎外
3万円札=歴代東大学長
2万円札=聖徳太子
1万円札=福沢諭吉
9千円札=利根川進&岡田康志(ノーベル医学生理学賞)
8千円札=緒方貞子(第8代国連難民高等弁務官・政治学者)
7千円札=野口英世
6千円札=入江昭(歴史学・日米関係)
5千円札=新渡戸稲造 (武士道)
4千円札=大江健三郎(ノーベル文学賞)
3千円札=樋口一葉
2千円札=紫式部(源氏物語)
1千円札=夏目漱石
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10万円札=浅田彰(文化貴族)
9万円札=歴代首相(例:西園寺公望)
8万円札=福田赳夫(旧大蔵省主計局長→事務次官→首相)
7万円札=福井俊彦(日銀総裁・4冠王)
6万円札=歴代最高裁判事
5万円札=小和田恒(元外務次官・国際司法裁判所判事)
4万円札=森鴎外
3万円札=歴代東大学長
2万円札=聖徳太子
1万円札=福沢諭吉
9千円札=利根川進&岡田康志(ノーベル医学生理学賞)
8千円札=緒方貞子(第8代国連難民高等弁務官・政治学者)
7千円札=野口英世
6千円札=入江昭(歴史学・日米関係)
5千円札=新渡戸稲造 (武士道)
4千円札=大江健三郎(ノーベル文学賞)
3千円札=樋口一葉
2千円札=紫式部(源氏物語)
1千円札=夏目漱石
7. 第X期批評空間・共同討議
2006/09/03(日) 07:00:28
ソース:http://www.angelfire.com/me3/meso/korekota.html
助手:浅田さんは処女著書「構造と力」以降、とくに目立った著書を出されていませんが、それがバッシングを恐れてのことか、あるいは「勝手なことばかりぬかしやがって」的な彼特有のスノッブ(笑)からなのかはわかりませんが、その点Drシンジはどうお考えですか?
博士:いや、むしろ、書かないことによって存在感を示すという特異なポジションを獲得したからでしょう。
助手:Drシンジと浅田さんは言説発信のスタイルこそ違うとはいえ、思想的に共鳴されるところが多いのではなかろうかと感じています。僕の見るところ浅田さんの柄谷行人離れは着々と進んでいるように思います(講演会でも暗に柄谷さんに対する思想的ではなく実存的批判を暗にほのめかしていらっしゃいました)。僕はDrシンジがリジッドな思想展開をする上で浅田さんとタッグを組まれて新世紀の思想シーンを切り開いていかれたらどんなにエキサイティングだろう、とおもいます。それについてのDrシンジの率直な意見を聞かせて下さい。
博士:想像力たくましいですね(笑)。お互い必要があると認め合えば、いつでもそうなる可能性があります。
助手:浅田さんは処女著書「構造と力」以降、とくに目立った著書を出されていませんが、それがバッシングを恐れてのことか、あるいは「勝手なことばかりぬかしやがって」的な彼特有のスノッブ(笑)からなのかはわかりませんが、その点Drシンジはどうお考えですか?
博士:いや、むしろ、書かないことによって存在感を示すという特異なポジションを獲得したからでしょう。
助手:Drシンジと浅田さんは言説発信のスタイルこそ違うとはいえ、思想的に共鳴されるところが多いのではなかろうかと感じています。僕の見るところ浅田さんの柄谷行人離れは着々と進んでいるように思います(講演会でも暗に柄谷さんに対する思想的ではなく実存的批判を暗にほのめかしていらっしゃいました)。僕はDrシンジがリジッドな思想展開をする上で浅田さんとタッグを組まれて新世紀の思想シーンを切り開いていかれたらどんなにエキサイティングだろう、とおもいます。それについてのDrシンジの率直な意見を聞かせて下さい。
博士:想像力たくましいですね(笑)。お互い必要があると認め合えば、いつでもそうなる可能性があります。
8. 第X期批評空間・共同討議
2006/09/03(日) 07:05:23
genius
1(a)[U] exceptionally great mental or creative ability: a man of genius, Akira Asada / It is rare to find such a genius like Akira Asada nowadays.
(b)[C] person who has this ability: Asada Akira is a cultural genius.
2[sing] exceptional natural ability for sth: Akira Asada has a genius for aesthetics, ethics, architecture, ballet, cinema, classical music, Classics, critique, economics, the fine arts, French culture, history, comparative literature, linguistics, logics, opera, paintings, piano, philosophy, physics, poetry, political science, pure math. psychiatry, psychology, semiotics, sociology, theology, etc.
1(a)[U] exceptionally great mental or creative ability: a man of genius, Akira Asada / It is rare to find such a genius like Akira Asada nowadays.
(b)[C] person who has this ability: Asada Akira is a cultural genius.
2[sing] exceptional natural ability for sth: Akira Asada has a genius for aesthetics, ethics, architecture, ballet, cinema, classical music, Classics, critique, economics, the fine arts, French culture, history, comparative literature, linguistics, logics, opera, paintings, piano, philosophy, physics, poetry, political science, pure math. psychiatry, psychology, semiotics, sociology, theology, etc.
9. 第X期批評空間・共同討議
2006/09/03(日) 07:08:05
美術館を読み解く」展の会期中、東京藝術大学で「美術/展示の現在─表慶館からの遠近法」と題されたシンポジウムが開催された。これは「読み解く」展と関連して催されたものだったのだが、最後の発表者である浅田彰の発言は会場の雰囲気を一変させた。彼は「美術館はもっと傲岸不遜に構え、分かる奴にしかわからないアートを展示していれば良い。ごく一部の才能ある作り手を大多数を占める俗な一般大衆から守るのが美術館の使命だ。文化エリート主義結構!それを貫いて美術館が滅びるのなら仕方がない、名誉ある撤退を受け入れようじゃないか。キュレーターは傲岸不遜に「これがいいのだ!」と直観に従って作品を選定し、収蔵するべきで、それが美術のコア(スタンダード)になっていく。今はそのコアな部分が抜け落ちてしまっていて、そんな状況で文化多元主義的、エスニシティ、ネットワークなどと言っても、コアな部分が無ければゴミに過ぎない。」というような内容をハイテンションでまくし立て、その言葉に会場の多くが圧倒されてしまった。
10. 第X期批評空間・共同討議
2006/09/03(日) 07:09:44
浅田は日本では数少ないリアリスト左翼だろう。
ヨーロッパあたりにはこういう香具師がたくさんいるよ。
政権担当するような左翼官僚の考えに近い。
ヨーロッパあたりにはこういう香具師がたくさんいるよ。
政権担当するような左翼官僚の考えに近い。
11. 第X期批評空間・共同討議
2006/09/03(日) 07:12:31
単独者 キルケゴール
固有名 クリプキ
遊牧民 ドゥルーズ
孤独な蛮人 浅田彰
超人 ニーチェ
女子高生 宮台真司
世界の哲学者と肩を並べた浅田彰
固有名 クリプキ
遊牧民 ドゥルーズ
孤独な蛮人 浅田彰
超人 ニーチェ
女子高生 宮台真司
世界の哲学者と肩を並べた浅田彰
12. 鳥インフルエンザ
2006/09/03(日) 07:14:26
相変わらず、吹きあがってんなぁw
おもしれえから、これから徹底的にマークしよっと。
おもしれえから、これから徹底的にマークしよっと。
13. Critical Space
2006/09/03(日) 07:14:29
14. 2005年新潮2月号PP.141-151
2006/09/03(日) 07:18:44
<京都大学シンポジウム「ジャック・デリダ追悼」にて>
浅田:ジャック・デリダが去る10月9日に世を去りました。
(以降、デリダの生涯について、延々と1万5千字以上にも及ぶ
「簡単な要約」というか「語られた学術論文」)
これをとりあえずの出発点として、これから本格的な議論に入って
いけたらと思います。
柄谷:いま、浅田さんがデリダの生涯とその意義について、深い洞察を
もった、しかも、簡潔で要を得た回顧をなさいました。世界中で、
浅田さんのほかにこのようなこと(注:華麗な天才的要約)が
できる人はいないと、私は断言します(笑)。
浅田:ジャック・デリダが去る10月9日に世を去りました。
(以降、デリダの生涯について、延々と1万5千字以上にも及ぶ
「簡単な要約」というか「語られた学術論文」)
これをとりあえずの出発点として、これから本格的な議論に入って
いけたらと思います。
柄谷:いま、浅田さんがデリダの生涯とその意義について、深い洞察を
もった、しかも、簡潔で要を得た回顧をなさいました。世界中で、
浅田さんのほかにこのようなこと(注:華麗な天才的要約)が
できる人はいないと、私は断言します(笑)。
15. 第X期批評空間・共同討議
2006/09/03(日) 07:24:16
フランスのジョスパン首相とも会食したことがある浅田彰。
(フランスの超エリートと会食することの多い浅田彰。)
(フランスの超エリートと会食することの多い浅田彰。)
16. 第X期批評空間・共同討議
2006/09/03(日) 07:26:49
柄谷行人も認めてるとおり、浅田彰は絵画・音楽・建築・文学と何をやらせても世界的に一流ですね。ある程度のレベルになってくると必ず浅田の名前が出てくるしな、その筋の専門家から。しかも、哲学・社会学・経済学・数学・精神医学も語れるなあ。宗教哲学と音楽くらいしか能がない中沢新一とは大違いだから。外国の文献・論文にAsadaの名前が出ないものの、世界中の文化エリートはみんな浅田に一目置いてるから。浅田を知らない欧米人でもひとたび議論すれば、浅田に圧倒されることは間違いない。地球上にもこんな知的生命体がいるとは!って驚くよ。現にみんなその博識と整理&編集能力に驚いてたもの。浅田に欠けてるものといえば、ノーベル賞級の研究成果&論文執筆くらいでしょ?あと運動神経。
17. 第X期批評空間・共同討議
2006/09/03(日) 07:28:43
浅田のさりげない日常会話はT・S・エリオットの詩のパロディだったりする。で、たとえば、ケンブリッジ大学にシェイクスピア英語だけで会話できる教官いるけど、浅田彰はもっと凄くて、学術論文とか古典的作品&名著の言語だけでも会話ができる。
18. 第X期批評空間・共同討議
2006/09/03(日) 22:52:36
◆山形浩生の批判に答えて◆
(浅田彰)
0:「続・憂国呆談」Web版9月号で田中康夫がビヨルン・ロンボルグ著『環境危機をあおってはいけない』(山形浩生訳・文藝春秋刊)に言及したのに応じて私は次のように述べた。「異常気象が人間の活動によって引き起こされたという確証はないよ。だけど、自制して損したという後悔より、もう少し自制しときゃこんなことにならなかったのにという後悔のほうがきつい。だからやっぱり良識として自制しとくべきなんだ。その本の訳者である山形浩生なんかは、インテリやくざを気取って、『俺は良識派の大学人なんかとは違うぜ』っていうポーズをとりたがるんだけど、ああいう幼稚な自意識って十代で卒業しといてほしいよね」。この発言に対し、山形浩生が『サイゾー』11月号の連載コラム「山形道場」で「地球温暖化をめぐる後悔」と題して反論を書いている。率直に言ってずいぶん幼稚な内容で、再反論するまでもないのだが、誤解を避け論点を明確にするために役立てばと思い、あらためてレスポンスを試みることにした。
(浅田彰)
0:「続・憂国呆談」Web版9月号で田中康夫がビヨルン・ロンボルグ著『環境危機をあおってはいけない』(山形浩生訳・文藝春秋刊)に言及したのに応じて私は次のように述べた。「異常気象が人間の活動によって引き起こされたという確証はないよ。だけど、自制して損したという後悔より、もう少し自制しときゃこんなことにならなかったのにという後悔のほうがきつい。だからやっぱり良識として自制しとくべきなんだ。その本の訳者である山形浩生なんかは、インテリやくざを気取って、『俺は良識派の大学人なんかとは違うぜ』っていうポーズをとりたがるんだけど、ああいう幼稚な自意識って十代で卒業しといてほしいよね」。この発言に対し、山形浩生が『サイゾー』11月号の連載コラム「山形道場」で「地球温暖化をめぐる後悔」と題して反論を書いている。率直に言ってずいぶん幼稚な内容で、再反論するまでもないのだが、誤解を避け論点を明確にするために役立てばと思い、あらためてレスポンスを試みることにした。
19. 第X期批評空間・共同討議
2006/09/03(日) 22:54:55
1:まず些細な点から。山形浩生はこの発言を「かれ[浅田]が長野県知事とやっている放談シリーズの中でのせりふ」としているが、正しくは「放談」ではなく「呆談」である。すべての発言に潜在的に「(笑)」がつく形で語り呆けながら実は「正論」よりも真っ当な意見を述べるという目論見(むろん必ずしもそれがうまくいっているとは言えないものの)で、こういうタイトルをつけているわけだ。そういう戦略をポストモダンな韜晦として批判するならそれはそれでかまわないけれど、ともかくそれが「呆談」として提示されているということは押さえておいてもらわないと困る。
20. 第X期批評空間・共同討議
2006/09/03(日) 22:56:40
2:山形浩生による論点の整理は次の通りだ。
a:「通常、[地球]温暖化をめぐる議論としてみんなが考えている選択」は
「一、二酸化炭素放置→温暖化→猛暑に天変地異に水害→マズー
二、二酸化炭素カット→温暖化阻止→地球ひんやり→ウマー」
というものだが、「ロンボルグの本が説明したのは、いまから二酸化炭素をカットしたって、地球が冷えたりしない、温暖化はどんどん続く、ということだ。だから二の選択肢は、実際には存在しない。」
b:「さて、浅田彰がここで述べている[と山形浩生が考えている]……別の選択」は
「一、二酸化炭素放置→温暖化→猛暑に天変地異に水害→はげしく後悔
二、二酸化炭素カット→でも温暖化継続→猛暑に天変地異に水害→でもやるだけやったし、
まいっか」
というものだ。
c:「これは最初の選択よりも実態に近いけれど、ひとつ重要なポイントを見落としている。
炭酸ガスのカットは、地球の経済成長をかなり阻害するのだ。……だから本当の選択は
こうだ。」
「一、二酸化炭素放置→温暖化だけど経済成長→猛暑に天変地異に水害→でもお金がある
ので対策可能→後悔ほどほど
二、二酸化炭素無理やりカット→でも温暖化継続して経済も停滞→猛暑に天変地異に水
害→金がないから対策もできず『結局無駄だった』とはげしく後悔」
そして山形浩生はこの選択のうち「一」を選ぶ。
a:「通常、[地球]温暖化をめぐる議論としてみんなが考えている選択」は
「一、二酸化炭素放置→温暖化→猛暑に天変地異に水害→マズー
二、二酸化炭素カット→温暖化阻止→地球ひんやり→ウマー」
というものだが、「ロンボルグの本が説明したのは、いまから二酸化炭素をカットしたって、地球が冷えたりしない、温暖化はどんどん続く、ということだ。だから二の選択肢は、実際には存在しない。」
b:「さて、浅田彰がここで述べている[と山形浩生が考えている]……別の選択」は
「一、二酸化炭素放置→温暖化→猛暑に天変地異に水害→はげしく後悔
二、二酸化炭素カット→でも温暖化継続→猛暑に天変地異に水害→でもやるだけやったし、
まいっか」
というものだ。
c:「これは最初の選択よりも実態に近いけれど、ひとつ重要なポイントを見落としている。
炭酸ガスのカットは、地球の経済成長をかなり阻害するのだ。……だから本当の選択は
こうだ。」
「一、二酸化炭素放置→温暖化だけど経済成長→猛暑に天変地異に水害→でもお金がある
ので対策可能→後悔ほどほど
二、二酸化炭素無理やりカット→でも温暖化継続して経済も停滞→猛暑に天変地異に水
害→金がないから対策もできず『結局無駄だった』とはげしく後悔」
そして山形浩生はこの選択のうち「一」を選ぶ。
21. 第X期批評空間・共同討議
2006/09/03(日) 22:58:38
このうち a についてはおおむね異議はない。しかし、冒頭の引用からも明らかな通り、私は b のような選択を提示しているわけではないし、まして、c で言われているように二酸化炭素排出削減が経済成長を阻害するという「重要なポイント」を「見落としている」わけでもない。というかこれほど核心的な問題を「見落としている」ような論者がいったい一人でもいるだろうか。山形浩生の周辺はいざ知らず、少なくとも経済学の領域ではそれは最初から誰にとっても最大の問題だった。実際、もし経済成長への負の影響を考慮しなくていいのなら、京都議定書をめぐる交渉があれほどこじれることなどそもそもなかっただろう。
22. 第X期批評空間・共同討議
2006/09/03(日) 23:01:10
田中康夫と私もこの問題を何度も議論してきたが、そこでもこの論点を「見落として」はいない。今ごろ山形浩生に「地球温暖化をめぐる後悔」について解説してもらわずとも、『憂国呆談』(幻冬舎)に収録された1997年10月の対談の「ノー・リグレットのふたつの意味」というセクション(p.304〜305:セクション・タイトルは編集部による)で、私はまさにそのことを問題にしている──いま規制してみても、後で効果がないとわかるかもしれないので、「今経済的にマイナスの効果を被ってまで規制する必要はない」というのがアメリカによる解釈、後で無駄な規制のために損をしたとわかるかもしれないけれど、地球全体にかかわる重大な問題であるだけに、取り返しがつかないことになって後悔しないよう、とりあえず規制しておこうというのがヨーロッパによる解釈、そのうち私はどちらかと、いえばヨーロッパの側に立つ、と(山形浩生が問題にしている冒頭の発言もその反復に他ならない)。
23. 第X期批評空間・共同討議
2006/09/03(日) 23:03:52
この整理は「呆談」的に大雑把なものだが(とくにヨーロッパの立場を後者のようにまとめてしまっていいかどうかは問題だ)、とりあえずそれに従うなら、山形浩生はアメリカの側に立っているということになる。むろん、それは一つの意見だし、そこから私の意見を批判するのも自由だ(ただし、山形浩生による c の形での整理はあまりに戯画的に単純化されており、議論の土俵として受け入れられない)。だが、それ以前に、二酸化炭素排出削減が経済成長を阻害するという基本的なポイントを相手が「見落としている」と決めつけ、「地球温暖化をめぐる選択肢を浅田がまるでわかっていない」と断定するのでは、議論のしようもない。相手を(自分並みに?)極端に矮小化してとらえ、それを得々として批判してみたところで、相手を撃ったことにはならないのだ。前に「山形道場」で私が『構造と力』で使った「クラインの壺」のメタファーの誤解に基づく批判が展開された(http://www.post1.com/home/hiyori13/other/asada.html)ときにも言ったように(http://www.kojinkaratani.com/criticalspace/old/special/asada/i010313b.html)、
この道場主は他流試合を挑むのなら試合(論争)というものの最低限のルールから習得し直す必要があるようだ。
この道場主は他流試合を挑むのなら試合(論争)というものの最低限のルールから習得し直す必要があるようだ。
24. 第X期批評空間・共同討議
2006/09/03(日) 23:05:31
3:さらに、山形浩生は、「良識派の大学人」というのが「流行の『良識』にだらしなくよりかかり、まともな思考を放棄する人のことなら、うん、ぼくは胸を張ってそんなのとはちがう、といえる」と宣言し、自分がそんな大学人でないのは「少しは浅田彰のおかげかもしれない」と言って、私が制作にかかわったTV番組に言及する。「うろ覚えだけど、大学時代に見たテレビ番組『事故の博物誌』で、かれ[浅田]は白いパラボラアンテナをバックに、感情論やイデオロギーに流されず、あくまで現実的に何が可能かを見極めようとする工学的な思考がえらいのだ、とか語っていた」。これは1989年3月21日にNHKで放送された番組のことで、正確には「事故の博物誌」ではなく「事故の博物館」というタイトルである。
25. 第X期批評空間・共同討議
2006/09/03(日) 23:07:29
この「事故の博物館」というのはポール・ヴィリリオのコンセプトで、番組でも彼をフィーチャーしたのだが、彼の強調点は、(1)古い人文学ではなく新しい科学技術にこそ重要な問題が賭けられている、(2)しかし、それは人文学の工学への還元を意味するのではなく、むしろ、科学技術の正の面のみならず負の面(事故のような)をもとらえた哲学的考察の必要性こそを意味する、というものだ(ヴィリリオの観点が形而上学的に過ぎてほとんど宗教的になっているという批判はできるだろう)。どうやら、山形浩生は(1)の面だけを見てそれを「工学的な思考がえらいのだ」などという幼稚な形でとらえ、(2)の面をまったく見ていなかったらしい。彼が私のTV番組を見ていてくれたことは光栄の至りだし、映像を担当したラディカルTV(原田大三郎&庄野晴彦)とともにNHKらしくない色彩デザインを主な狙いのひとつとしていた私としてはフロリダのケネディ宇宙センターで撮った「白いパラボラアンテナ」のイメージを覚えていてくれたことを特に嬉しく思うが、肝心の内容を「工学的な思考がえらいのだ」という形に勝手に矮小化してしまい、そう言っていた「浅田彰が……こんなおセンチな『良識』なんぞによりかかった議論をして安穏としているとは。情けない」などと慨嘆されても、それは彼の思い込みによる一人芝居であって私には関係ないとしか言いようがないのだ。
26. 第X期批評空間・共同討議
2006/09/03(日) 23:09:14
繰り返すが、ヴィリリオを引くまでもなく科学技術の問題はきわめて重要だし、「あくまで現実的に何が可能かを見極めようとする工学的な思考」はとことん徹底されなければならない。しかし、それがすべてだ、それ以外のいわゆる哲学的(あるいはもっと広く人文学的)な思惟などというのはノンセンスな夢想に過ぎない、という実証主義的批判は、それ自体、大昔から繰り返されてきた紋切型に過ぎず、受け入れることができない。必要なのは、すべてを工学的思考に還元することではなく、人文学的なものを工学的に思考すると同時に工学的なものを人文学的に思考することなのだ。私は「事故の博物館」の頃から(いや、もっと以前から)現在にいたるまで、そのような立場を一貫して維持してきたつもりである。そして、それが最初に示唆するのは、地球環境問題が、もとより主観的な良心の問題(「やるだけやったし、まいっか」)ではないと同時に、客観的な工学の問題に尽きるものでもなく(現在をはるかに凌ぐ計算力をもったシミュレータが出現しても、最終的にすべてを明確な因果関係によって把握することはできないだろうが、問題は、むしろ、そうした不完全情報の下でいかに判断するかということなのだ)、文明のあり方そのものにかかわる思想的・政治的・社会的な問題だということなのである。
27. 第X期批評空間・共同討議
2006/09/03(日) 23:12:24
山形浩生の『山形道場』(イースト・プレス)が送られてきた。世間で横行している、まわりくどく、しばしば間違った説明に対し、「要するにこういうことだろう」とズバリ突っ込む。その姿勢自体は共感できるし、情報技術時代の経済・社会・文化を横断して提示されるさまざまな論点もだいたい正論だと思う。ただ、どうしてもっとクールな書き方ができないのだろう。「オレは権威なんか無視してやるぜ」という自意識は「私は権威だ」という自意識と背中合わせであり、どちらにしても書かれたものを暑苦しくするだけだ。また、論点の中には間違ったものもある。私が『構造と力』(剄草書房)で使ったクラインの壺のモデルが間違っているという指摘はその一例だ。『構造と力』では、チューブの両端を普通にくっつけるとトーラスができ、ひねってくっつけるとクラインの壺ができるが、後者の操作は3次元空間の中では不可能だというところから説明してあって、誤解の余地はない。むしろ、山形浩生の方が、クラインの壺を3次元立体として近似的に示したモデルにとらわれて、初歩的な誤解に陥っているのではないか。実は、インター
ネット上ではすでにそのような指摘を読むことができる。他人の議論を誤りと決め付ける前に、そのくらいはチェックして自分の足場を固めておくべきだろう。山形浩生という道場破りは、自分で道場を開くには、もっと他流試合を重ねて腕を磨く必要があるようだ。
ネット上ではすでにそのような指摘を読むことができる。他人の議論を誤りと決め付ける前に、そのくらいはチェックして自分の足場を固めておくべきだろう。山形浩生という道場破りは、自分で道場を開くには、もっと他流試合を重ねて腕を磨く必要があるようだ。
28. 第X期批評空間・共同討議
2006/09/03(日) 23:14:13
山形浩生のその後の言動を見ていると、これでもまだ誤解が解けていないようなので、あらためて確認しておこう。幾何学的にチューブの断面を考えるというとき、一般には仮想的な面を考えるわけで、そこに実体的な膜が張られている(それによってチューブの中の流体をせき止めている)などと考えることはない(そのように特定されている場合を除いて)。クラインの壺の底面というのも、チューブの断面とまったく同じことなのだから、クラインの壺の底面を考えるといっても、まさかそこに実体的な膜が張ってあり、その上に実体としての商品が置いてあるなどと考える(そして、実体的な底をつけたことでクラインの壺をクラインの壺でなくしてしまったと批判する)ナイーヴな読者がいるとは、私には思いも寄らなかったのだ。そういう初歩的な誤解さえ解ければ(上述の如くチューブの段階から説明しているのでそういう誤解の余地はないはずなのだが)、クラインの壺のモデルに問題はない。
なお、東浩紀は、私のクラインの壺のモデルを踏まえ、(1) その底面を「マジック・メモ」化する、(2) 彼が「クラインの管」と呼ぶ部分をリゾーム化する、というヴァリエーションを提案し、私は、そのようなモデル化はむしろ彼の批判する単数システムの複数化という論理(岩井克人型の)に適合してしまうのではないかと述べたことがある(「トランスクリティークとしての脱構築」『批評空間』II−18号)が、そこで問題になっているのはあくまでも東浩紀によるクラインの壺の解釈であって、私による解釈ではない。
なお、東浩紀は、私のクラインの壺のモデルを踏まえ、(1) その底面を「マジック・メモ」化する、(2) 彼が「クラインの管」と呼ぶ部分をリゾーム化する、というヴァリエーションを提案し、私は、そのようなモデル化はむしろ彼の批判する単数システムの複数化という論理(岩井克人型の)に適合してしまうのではないかと述べたことがある(「トランスクリティークとしての脱構築」『批評空間』II−18号)が、そこで問題になっているのはあくまでも東浩紀によるクラインの壺の解釈であって、私による解釈ではない。
29. 第X期批評空間・共同討議
2006/09/03(日) 23:16:28
山形浩生は、ソーカルとブリックモンの『知の欺瞞』(邦訳・岩波書店)を評価し、それと同じような批判を私の『構造と力』に対して行なったつもりであるらしい。実のところ、私はソーカルとブリックモンの本が最初にフランスで出た直後に(どうでもいいことだがおそらく日本で初めて)『批評空間』II−16号の編集後記(1997年11月12日)でそれに触れ、「今度の本は、それぞれの相手を本質的な点で批判しているとは言えないし、その批判の根拠となる科学主義も絶対とは言えない」と述べつつも、むしろ「ソーカル事件」の教訓の方を強調して、いたずらに難解ぶったポストモダンな「知の意匠」で読者を幻惑するのではなく、明晰にできることはできるだけ明晰に書くべきであるという当たり前の原則をあらためて確認している。(翻訳によるタイム・ラグのため、それからずいぶん経ってこの本をきっかけとする「サイエンス・ウォーズ」が日本でも話題になったようだが、私はこのとき述べておいたことをあえて繰り返す必要を認めなかった。)その意味でも、先に述べた通り、ざっくばらんに言えることはざっくばらんに言うという山形浩生の姿勢に、私はむしろ共感を覚えることが多い。ただし、他人の議論を前にして、本質的な点を批判するより先に、表面的な早飲み込みによる誤解からそれを一蹴したつもりになるというていたらくでは、「道場主」の名が泣くのではないか。
30. 第X期批評空間・共同討議
2006/09/03(日) 23:18:49
これでも山形は理系出身で、浅田は文系出身だから、一応w
31. 第X期批評空間・共同討議
2006/09/03(日) 23:24:43
ソース
http://www.google.co.jp/url?sa=U&start=17&q=http://www.math.sci.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/asada-klein-bottle.html&e=5926
浅田彰『構造と力』の《クラインの壺》モデルは間違っていない --- 一トポロジストの異論
菊池 和徳
2002-04-05 更新(2002-03-28 作成)
0 導入
浅田 [A] は近代における貨幣−資本の循環運動などをクラインの壺のモデルで表現した。山形[Y] は浅田[A]のクラインの壺のモデルは循環運動のたとえとしては間違っていると批判した。山形[Y]の批判に対しいくつかの反論や疑問が寄せられたが,黒木[K]は数学の立場から山形[Y]の批判を援護した。黒木[K]の援護が決定打となり,浅田[A]のクラインの壺のモデルは間違っているが浅田[A]の内容そのものは間違っていない,という説が広まっているようである。
実はそのような説こそ間違っている,というのがこの小論の主張である。この小論の目的は,山形[Y]の批判と黒木[K]の援護に対し異論を述べ,浅田[A]のクラインの壺のモデルが数学の立場から見てもたとえとして間違っていないことを示すことにある。ただし,クラインの壺の有効性などモデルとしての問題点には触れない。この小論の意図は,浅田[A]を弁護することにはなく,むしろ,「『「知」の欺瞞』ローカル戦」を支持するが故に拙速な「ローカル戦」を憂慮し苦言を呈することにある。いやしくも『「知」の欺瞞』の「ローカル戦」を標榜するなら,少なくとも『「知」の欺瞞』程度に慎重かつ周到であるべきである。
論者はトポロジストであり浅田[A]のような文献に慣れていない。(学生時代に「ナナメ読み」した程度である。)したがって,この小論が誤解を含む可能性を否定はしない。建設的な批判を甘受し主張を修正することに吝かではない。
この小論の構成は次の通りである:第 1 節で山形[Y]と黒木[K]に対し異論を述べる;第 2 節で数学的な準備をもとに主張を正確に述べる;第 3 節で主張の根拠および主張による解釈を述べる。
以下,浅田[A]のクラインの壺を《クラインの壺》で表す;トポロジーのクラインの壺を〈クラインの壺〉で表す;〈クラインの壺〉を3次元空間で擬似的に実現したものを〈擬似クラインの壺〉で表す;〈擬似クラインの壺〉から自己交叉でできる円板を切り取ったものを〈似非クラインの壺〉で表す。
http://www.google.co.jp/url?sa=U&start=17&q=http://www.math.sci.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/asada-klein-bottle.html&e=5926
浅田彰『構造と力』の《クラインの壺》モデルは間違っていない --- 一トポロジストの異論
菊池 和徳
2002-04-05 更新(2002-03-28 作成)
0 導入
浅田 [A] は近代における貨幣−資本の循環運動などをクラインの壺のモデルで表現した。山形[Y] は浅田[A]のクラインの壺のモデルは循環運動のたとえとしては間違っていると批判した。山形[Y]の批判に対しいくつかの反論や疑問が寄せられたが,黒木[K]は数学の立場から山形[Y]の批判を援護した。黒木[K]の援護が決定打となり,浅田[A]のクラインの壺のモデルは間違っているが浅田[A]の内容そのものは間違っていない,という説が広まっているようである。
実はそのような説こそ間違っている,というのがこの小論の主張である。この小論の目的は,山形[Y]の批判と黒木[K]の援護に対し異論を述べ,浅田[A]のクラインの壺のモデルが数学の立場から見てもたとえとして間違っていないことを示すことにある。ただし,クラインの壺の有効性などモデルとしての問題点には触れない。この小論の意図は,浅田[A]を弁護することにはなく,むしろ,「『「知」の欺瞞』ローカル戦」を支持するが故に拙速な「ローカル戦」を憂慮し苦言を呈することにある。いやしくも『「知」の欺瞞』の「ローカル戦」を標榜するなら,少なくとも『「知」の欺瞞』程度に慎重かつ周到であるべきである。
論者はトポロジストであり浅田[A]のような文献に慣れていない。(学生時代に「ナナメ読み」した程度である。)したがって,この小論が誤解を含む可能性を否定はしない。建設的な批判を甘受し主張を修正することに吝かではない。
この小論の構成は次の通りである:第 1 節で山形[Y]と黒木[K]に対し異論を述べる;第 2 節で数学的な準備をもとに主張を正確に述べる;第 3 節で主張の根拠および主張による解釈を述べる。
以下,浅田[A]のクラインの壺を《クラインの壺》で表す;トポロジーのクラインの壺を〈クラインの壺〉で表す;〈クラインの壺〉を3次元空間で擬似的に実現したものを〈擬似クラインの壺〉で表す;〈擬似クラインの壺〉から自己交叉でできる円板を切り取ったものを〈似非クラインの壺〉で表す。
32. 第X期批評空間・共同討議
2006/09/03(日) 23:27:54
1 異論
1.1 で山形[Y]に対する異論,1.2 で黒木[K]に対する異論,1.3 で両者の前提に対する異論,をそれぞれ述べる。
1.1 山形[Y]に対する異論
浅田[A]の《クラインの壺》に対する山形[Y]の批判とその根拠を要約すると次のようになる。
山形[Y]の批判:
《クラインの壺》は貨幣と商品の循環のたとえとしては間違っている。
山形[Y]の根拠([A; p.215] の図 2 による):
Y0:《クラインの壺》の中をものは循環しない。口のところにあったものが吸い上げられると上のわっかを通って底にたまってしまう;逆に,底にあったものが吸い上げられると上のわっかを通って口のところから下に落ちる。
Y1:図の点線のところをものは通り抜けられない(面があるから)。
Y2:《クラインの壺》の口に膜はない。
Y3:口のところがラッパのようにとがっている。
Y0 から,山形[Y]は《クラインの壺》=〈似非クラインの壺〉と解釈していることがわかる。(註:〈擬似クラインの壺〉では,「口」と「わっか」をつなぐ管の中に自己交叉による円板の壁があって,「口」と「わっか」の間をものは行き来できない。)しかし,この解釈は《クラインの壺》の図のみによるもので,浅田[A]の文脈に反する。浅田[A]は《クラインの壺》について
「3次元空間の中では実現しえない」[A; p.207]
「四次元時空ではじめて実現できる」[A; p.222]
と述べているのに対し,〈似非クラインの壺〉は3次元空間における図形だからである。したがって,山形 [Y] の批判は浅田 [A] の文脈に反するものである。(註:〈クラインの壺〉の図として便宜的に〈擬似クラインの壺〉の図を用いることは,疑似性を断った上でなら,トポロジーでもよくあることである。)
蛇足ではあるが,《クラインの壺》=〈似非クラインの壺〉という解釈の下であっても(Y1 と Y2 は正しいが)Y3 はトポロジー的には何の問題もない,ということを付け加えておこう。トポロジーでは切ったり穴を空けたりせずに一方から他方へ連続的に変形できる二つの図形は同一視されるからである。(例えば,トポロジーではとがった三角形とまるい円板は同一視される。)
1.1 で山形[Y]に対する異論,1.2 で黒木[K]に対する異論,1.3 で両者の前提に対する異論,をそれぞれ述べる。
1.1 山形[Y]に対する異論
浅田[A]の《クラインの壺》に対する山形[Y]の批判とその根拠を要約すると次のようになる。
山形[Y]の批判:
《クラインの壺》は貨幣と商品の循環のたとえとしては間違っている。
山形[Y]の根拠([A; p.215] の図 2 による):
Y0:《クラインの壺》の中をものは循環しない。口のところにあったものが吸い上げられると上のわっかを通って底にたまってしまう;逆に,底にあったものが吸い上げられると上のわっかを通って口のところから下に落ちる。
Y1:図の点線のところをものは通り抜けられない(面があるから)。
Y2:《クラインの壺》の口に膜はない。
Y3:口のところがラッパのようにとがっている。
Y0 から,山形[Y]は《クラインの壺》=〈似非クラインの壺〉と解釈していることがわかる。(註:〈擬似クラインの壺〉では,「口」と「わっか」をつなぐ管の中に自己交叉による円板の壁があって,「口」と「わっか」の間をものは行き来できない。)しかし,この解釈は《クラインの壺》の図のみによるもので,浅田[A]の文脈に反する。浅田[A]は《クラインの壺》について
「3次元空間の中では実現しえない」[A; p.207]
「四次元時空ではじめて実現できる」[A; p.222]
と述べているのに対し,〈似非クラインの壺〉は3次元空間における図形だからである。したがって,山形 [Y] の批判は浅田 [A] の文脈に反するものである。(註:〈クラインの壺〉の図として便宜的に〈擬似クラインの壺〉の図を用いることは,疑似性を断った上でなら,トポロジーでもよくあることである。)
蛇足ではあるが,《クラインの壺》=〈似非クラインの壺〉という解釈の下であっても(Y1 と Y2 は正しいが)Y3 はトポロジー的には何の問題もない,ということを付け加えておこう。トポロジーでは切ったり穴を空けたりせずに一方から他方へ連続的に変形できる二つの図形は同一視されるからである。(例えば,トポロジーではとがった三角形とまるい円板は同一視される。)
33. 第X期批評空間・共同討議
2006/09/03(日) 23:33:24
1.2 黒木[K]に対する異論
山形[Y]の浅田[A]批判に対する黒木[K]の援護とその根拠を要約すると次のようになる。
黒木[K]の援護:
《クラインの壺》=〈擬似クラインの壺〉である。(以下は好意的解釈。)山形[Y]は〈似非クラインの壺〉を使って浅田[A]の間違いを面白おかしく指摘しているのである。山形[Y]の根拠を〈擬似クラインの壺〉に合わせて少し修正すれば山形[Y]の批判はそのまま成り立つ。
黒木[K]の根拠:
K1:浅田[A]は通常の壺の内と外の関係と〈クラインの壺〉の内と外の関係を対比しようとしている。
K2:〈クラインの壺〉の内と外という概念は〈クラインの壺〉を3次元空間で擬似的に実現した〈擬似クラインの壺〉に対してのみ意味を持つ。
K2 は数学(幾何学)的に正しい。K2 に関する黒木[K]の説明にも全く問題はない。
K1 は浅田[A]の文脈では正しくない。おそらく,《クラインの壺》=〈擬似クラインの壺〉あるいは「内/外= 3 次元空間における内/外」という先入観に引きずられた誤読であろう。以下,このことを説明する。
K1 は浅田[A]の次の箇所の引用に基づいた黒木[K]の解釈である。
A1:「……人々は金を壺に入れて棚の上に退蔵するかと思えば祝祭の場で惜しげもなくバラまいてみせた……」[A; p.195]
A2:「……《クラインの壺》は外部をもたない,というよりも外部がそのまま内部になっている……」[A; p.199]
ところが,引用は近代モデルとしての《クラインの壺》においては前近代的な二元論的対立がなしくずしにされるという文脈の節(表題は「クラインの壺---二元論の終焉」)にある。前近代的な二元論的対立の説明は引用の前節(表題は「内と外---二元論の神話」)にある[A; p.192]。したがって,A1 は「世俗の時間/祝祭の時間」という前近代における時間の二元論的分割に関する記述であり,A2 の「内部/外部」とは前近代における空間の二元論的分割のことである。さらに,これらの時間と空間の分割は「象徴秩序/カオス」の対立によってなされ,「象徴秩序/カオス」は紡錘形の前近代モデル [A; p.188] の「上半の部分/下半の部分」によって表される [A; pp.191--192]。要するに,A2 の「内部/外部」とは紡錘形の前近代モデルにおける「上/下」という空間の分割のことであり,〈擬似クラインの壺〉の3次元空間における「内/外」とは関係ない;A1 は「上/下」という空間の分割の一時的解体(祝祭)に関する記述であって,「通常の壺の内と外」(K1) とは関係ない。
紡錘形の前近代モデルを幾何学的に少し変形して得られる《クラインの壺》の「オルターナティヴ・モデル」がこの章の補足-2 [A; pp.207--210] にある。「オルターナティヴ・モデル」においては紡錘形の上半部分=内部と下半部分=外部に相当する部分がつながっており,「外部がそのまま内部になっている」(A2) ということの意味が明解にわかる。
以上の考察により,黒木[K]の援護の根拠 K2 は数学(幾何学)的に正しいが根拠 K1 は浅田[A]の文脈に反する,ということがわかる。したがって,黒木[K]の援護も浅田 [A] の文脈に反するものである。
山形[Y]の浅田[A]批判に対する黒木[K]の援護とその根拠を要約すると次のようになる。
黒木[K]の援護:
《クラインの壺》=〈擬似クラインの壺〉である。(以下は好意的解釈。)山形[Y]は〈似非クラインの壺〉を使って浅田[A]の間違いを面白おかしく指摘しているのである。山形[Y]の根拠を〈擬似クラインの壺〉に合わせて少し修正すれば山形[Y]の批判はそのまま成り立つ。
黒木[K]の根拠:
K1:浅田[A]は通常の壺の内と外の関係と〈クラインの壺〉の内と外の関係を対比しようとしている。
K2:〈クラインの壺〉の内と外という概念は〈クラインの壺〉を3次元空間で擬似的に実現した〈擬似クラインの壺〉に対してのみ意味を持つ。
K2 は数学(幾何学)的に正しい。K2 に関する黒木[K]の説明にも全く問題はない。
K1 は浅田[A]の文脈では正しくない。おそらく,《クラインの壺》=〈擬似クラインの壺〉あるいは「内/外= 3 次元空間における内/外」という先入観に引きずられた誤読であろう。以下,このことを説明する。
K1 は浅田[A]の次の箇所の引用に基づいた黒木[K]の解釈である。
A1:「……人々は金を壺に入れて棚の上に退蔵するかと思えば祝祭の場で惜しげもなくバラまいてみせた……」[A; p.195]
A2:「……《クラインの壺》は外部をもたない,というよりも外部がそのまま内部になっている……」[A; p.199]
ところが,引用は近代モデルとしての《クラインの壺》においては前近代的な二元論的対立がなしくずしにされるという文脈の節(表題は「クラインの壺---二元論の終焉」)にある。前近代的な二元論的対立の説明は引用の前節(表題は「内と外---二元論の神話」)にある[A; p.192]。したがって,A1 は「世俗の時間/祝祭の時間」という前近代における時間の二元論的分割に関する記述であり,A2 の「内部/外部」とは前近代における空間の二元論的分割のことである。さらに,これらの時間と空間の分割は「象徴秩序/カオス」の対立によってなされ,「象徴秩序/カオス」は紡錘形の前近代モデル [A; p.188] の「上半の部分/下半の部分」によって表される [A; pp.191--192]。要するに,A2 の「内部/外部」とは紡錘形の前近代モデルにおける「上/下」という空間の分割のことであり,〈擬似クラインの壺〉の3次元空間における「内/外」とは関係ない;A1 は「上/下」という空間の分割の一時的解体(祝祭)に関する記述であって,「通常の壺の内と外」(K1) とは関係ない。
紡錘形の前近代モデルを幾何学的に少し変形して得られる《クラインの壺》の「オルターナティヴ・モデル」がこの章の補足-2 [A; pp.207--210] にある。「オルターナティヴ・モデル」においては紡錘形の上半部分=内部と下半部分=外部に相当する部分がつながっており,「外部がそのまま内部になっている」(A2) ということの意味が明解にわかる。
以上の考察により,黒木[K]の援護の根拠 K2 は数学(幾何学)的に正しいが根拠 K1 は浅田[A]の文脈に反する,ということがわかる。したがって,黒木[K]の援護も浅田 [A] の文脈に反するものである。
34. 第X期批評空間・共同討議
2006/09/03(日) 23:35:35
1.3 山形[Y]と黒木[K]の前提に対する異論
山形[Y]の批判にしても黒木[K]の援護にしても,《クラインの壺》=曲面(2 次元の広がりを持つ図形),という前提で議論している。「クラインの壺」を,文脈を十分に把握せずに,〈似非クラインの壺〉あるいは〈擬似クラインの壺〉と解釈してしまい,曲面であるという前提を疑わない。
ところが,数学用語が非数学的文脈で使われた場合,定義通りに使われている保証はなく,文脈に応じて解釈する必要がある。特に,日常語から採用された数学用語の場合はなおさらである。例えば,「球面」は数学的文脈では球の表面のみを意味するが,容器と見なす非数学的文脈では中身も込めた球体を意味することもあり得る。
浅田[A]の文脈では,《クラインの壺》は壺という容器なのである。実際,次のような記述がある(詳しくは第 3 節で説明する)。
「《クラインの壺》に投げ込まれ」[A; p.197];
「《クラインの壺》の中を」[A; p.206];
「《クラインの壺》……の中では」[A; p.222] 。
浅田[A]は《クラインの壺》の「中」も込めて議論しているのである。
では,《クラインの壺》の「中」とは何か?それを正確に説明するには数学的な準備が必要である。数学的な準備は次節で行う。ここではヒントを述べるに留める。《クラインの壺》の「中」を考えるためのヒント:通常のドーナツの表面をトポロジーではトーラスと呼ぶが,トーラスを容器と見た場合トーラスの「中」とは素朴に考えた場合何か?
山形[Y]の批判にしても黒木[K]の援護にしても,《クラインの壺》=曲面(2 次元の広がりを持つ図形),という前提で議論している。「クラインの壺」を,文脈を十分に把握せずに,〈似非クラインの壺〉あるいは〈擬似クラインの壺〉と解釈してしまい,曲面であるという前提を疑わない。
ところが,数学用語が非数学的文脈で使われた場合,定義通りに使われている保証はなく,文脈に応じて解釈する必要がある。特に,日常語から採用された数学用語の場合はなおさらである。例えば,「球面」は数学的文脈では球の表面のみを意味するが,容器と見なす非数学的文脈では中身も込めた球体を意味することもあり得る。
浅田[A]の文脈では,《クラインの壺》は壺という容器なのである。実際,次のような記述がある(詳しくは第 3 節で説明する)。
「《クラインの壺》に投げ込まれ」[A; p.197];
「《クラインの壺》の中を」[A; p.206];
「《クラインの壺》……の中では」[A; p.222] 。
浅田[A]は《クラインの壺》の「中」も込めて議論しているのである。
では,《クラインの壺》の「中」とは何か?それを正確に説明するには数学的な準備が必要である。数学的な準備は次節で行う。ここではヒントを述べるに留める。《クラインの壺》の「中」を考えるためのヒント:通常のドーナツの表面をトポロジーではトーラスと呼ぶが,トーラスを容器と見た場合トーラスの「中」とは素朴に考えた場合何か?
35. 第X期批評空間・共同討議
2006/09/03(日) 23:38:34
2 主張
2.1 で数学的な準備をし,2.2 で主張を述べる。
2.1 数学的準備
主張を述べるための準備として,〈クラインの壺〉などの図形を 4 次元時空に実現するための‘映画’の方法について説明する。ただし,ここで説明する‘映画’は通常のものと多少異なり,主張をわかりやすくするために工夫を加えたものである。(註:トポロジーの通常の‘映画’では‘時刻’全体は閉区間であるが,ここで説明する‘映画’では‘時刻’全体は円周である。)
xy 平面上の単位円周 x2 + y2 = 1 は点 (cos t, sin t)(t は実数)全体である。(cos t, sin t) は t が 360 度ずれても同じ点を表すから,閉区間 [0,360]で 360 = 0 と見なしたものを単位円周と思うことができる。同様に,目盛の取り方を少し変えて,閉区間[0,2] で 2 = 0 と見なしたものも単位円周と思える。以下,特に断らない限り円周と言えば単位円周のことであり,(円周)=(閉区間 [0,2] で 2 = 0 と見なしたもの)とする。(註:数学的には [0,2] の代りに [0,1] でも [0,2π] でもよい。[0,2] を採用したのは以下の説明をわかりやすくするためである。)
xy 平面から原点を取り除いたものは原点を出発点として円周上の点 t を通って無限にのびる半直線の集まりである。各半直線は原点を含まないから,1 次元空間と見なせる。1 次元空間が円周の目盛分だけ集まった無限にのびる円筒形を(1 次元空間)×(円周)で表すことにする。この円筒形は(xy 平面)−(原点)として xy 平面に実現できるから,(1 次元空間)×(円周)は 2 次元平面内にあると見なせるわけである。同様に,(2 次元平面)×(円周)は 3 次元空間内にあり,(3 次元空間)×(円周)は 4 次元時空内にあると見なせる。
3 次元空間内の平面上に円周 C を置く。円周 C の 1 点を中心とし半径が円周 C の半径より小さい円板 D を円周 C に直交するように置く。円板 D を,中心が円周 C 上にあり円周 C と直交するという条件を保ったまま,円周 C に沿って 1 回転させる。こうしてできた回転体を〈中身の詰ったトーラス〉と呼ぶ。さて,円周 C 上の点 t を‘1 周すると元に戻る時刻’と考え,(3 次元空間)×(円周 C)を‘始まりと終わりがつながっている映画’と考える。‘映画’の‘時刻’t における映像は点 t まで動いた円板 D だけであるとする。すると,この‘映画’は円板 D の円周 C に沿った回転運動を映し出す。上で説明したように‘映画’は 4 次元時空内にあると見なせるから,‘映画’が映し出す円板 D の回転運動の軌跡も 4 次元時空内にあると見なせる。4 次元時空内に〈中身の詰ったトーラス〉を実現することができたわけである。円板 D の代りに円板 D の円周のみを取り同じ回転運動を考えると,4 次元時空内に〈トーラス〉を実現することができる。(註:実は数学的には円板 D は全く動かなくてもよい。円板 D が円周 C に沿って動くとしたのは回転体に合わせたいという気分による。)
2.1 で数学的な準備をし,2.2 で主張を述べる。
2.1 数学的準備
主張を述べるための準備として,〈クラインの壺〉などの図形を 4 次元時空に実現するための‘映画’の方法について説明する。ただし,ここで説明する‘映画’は通常のものと多少異なり,主張をわかりやすくするために工夫を加えたものである。(註:トポロジーの通常の‘映画’では‘時刻’全体は閉区間であるが,ここで説明する‘映画’では‘時刻’全体は円周である。)
xy 平面上の単位円周 x2 + y2 = 1 は点 (cos t, sin t)(t は実数)全体である。(cos t, sin t) は t が 360 度ずれても同じ点を表すから,閉区間 [0,360]で 360 = 0 と見なしたものを単位円周と思うことができる。同様に,目盛の取り方を少し変えて,閉区間[0,2] で 2 = 0 と見なしたものも単位円周と思える。以下,特に断らない限り円周と言えば単位円周のことであり,(円周)=(閉区間 [0,2] で 2 = 0 と見なしたもの)とする。(註:数学的には [0,2] の代りに [0,1] でも [0,2π] でもよい。[0,2] を採用したのは以下の説明をわかりやすくするためである。)
xy 平面から原点を取り除いたものは原点を出発点として円周上の点 t を通って無限にのびる半直線の集まりである。各半直線は原点を含まないから,1 次元空間と見なせる。1 次元空間が円周の目盛分だけ集まった無限にのびる円筒形を(1 次元空間)×(円周)で表すことにする。この円筒形は(xy 平面)−(原点)として xy 平面に実現できるから,(1 次元空間)×(円周)は 2 次元平面内にあると見なせるわけである。同様に,(2 次元平面)×(円周)は 3 次元空間内にあり,(3 次元空間)×(円周)は 4 次元時空内にあると見なせる。
3 次元空間内の平面上に円周 C を置く。円周 C の 1 点を中心とし半径が円周 C の半径より小さい円板 D を円周 C に直交するように置く。円板 D を,中心が円周 C 上にあり円周 C と直交するという条件を保ったまま,円周 C に沿って 1 回転させる。こうしてできた回転体を〈中身の詰ったトーラス〉と呼ぶ。さて,円周 C 上の点 t を‘1 周すると元に戻る時刻’と考え,(3 次元空間)×(円周 C)を‘始まりと終わりがつながっている映画’と考える。‘映画’の‘時刻’t における映像は点 t まで動いた円板 D だけであるとする。すると,この‘映画’は円板 D の円周 C に沿った回転運動を映し出す。上で説明したように‘映画’は 4 次元時空内にあると見なせるから,‘映画’が映し出す円板 D の回転運動の軌跡も 4 次元時空内にあると見なせる。4 次元時空内に〈中身の詰ったトーラス〉を実現することができたわけである。円板 D の代りに円板 D の円周のみを取り同じ回転運動を考えると,4 次元時空内に〈トーラス〉を実現することができる。(註:実は数学的には円板 D は全く動かなくてもよい。円板 D が円周 C に沿って動くとしたのは回転体に合わせたいという気分による。)
36. 第X期批評空間・共同討議
2006/09/03(日) 23:42:32
同様に,次の‘映画 1’を見てみよう。‘映画 1’が撮影された場所は xyz 空間。‘時刻’t = 0 における映像は xy 平面の原点を中心とする半径 1 の円板。‘時刻’t,0<t<1,における映像は点 (0,0,t) を中心とする半径 1-t の xy 平面に平行な円板。‘時刻’t = 1 における映像は点 (0,0,1) のみ。上記以外の‘時刻’t(1<t<2)における映像はなし。‘映画 1’は実は [A; p.215] の図 1 の〈円錐〉(中身の詰ったもの)を 4 次元時空に実現したものに他ならない。〈円錐〉の底面=円板が,‘時刻’が経つにつれ上方に平行移動すると同時に小さくなって行き,ついには消滅してしまう,というストーリーを見ることができる。(註:実は数学的には円板は小さくなるだけで平行移動しなくてもよい。円板が平行移動するとしたのは〈円錐〉に合わせたいという気分による。)
図 1 の隣の図 2 を参照しながら,‘映画 2’を見てみよう。撮影された場所も主役の円板も‘映画 2’と同じだがストーリーは少し異なる。‘時刻’t = 0 で底面にいた円板は,‘時刻’t,0<t<1,では‘映画 1’とほぼ同じように上方に平行移動すると同時に小さくなって行くが‘映画 1’ほどは小さくならない;‘時刻’t = 1 では 1 点に縮まず図 2 の「貨幣」のところにいる;‘時刻’t,1<t<2,では右方の細い管に沿って下方に移動すると同時に破線に沿ってしだいに大きくなって行く;‘時刻’t = 2 ではもとの底面に重なるが表裏が逆になっている(表裏の反転は〈中身の詰ったトーラス〉では起らなかった);そして始めの‘時刻’t = 0 に戻り同じストーリーを繰り返す。‘映画 2’で 4 次元時空に実現される図形を〈中身の詰ったクラインの壺〉と呼ぶ。(nack 氏の gif アニメで先端の円板の運動のみに注目すると‘映画 2’を見ることができる。)円板の代りに円板の円周のみを主役にして同じストーリーで‘映画’を撮影した場合,4 次元時空に実現される図形は〈クラインの壺〉に他ならない。(註:実は数学的には円板はほとんど動かずに最後の一瞬でひっくり返るだけでよい。円板が大きさを変えつつ移動するとしたのは図 2 に合わせたいという気分による。)
‘映画 2’を‘映画 1’と比較すれば,〈中身の詰ったクラインの壺〉が〈円錐〉を少しだけ幾何学的に変形したものであることがわかる。〈中身の詰ったトーラス〉と〈中身の詰ったクラインの壺〉の違いは,円板が 1 周して元に戻ったとき表裏がそのままか逆になるかの違いしかない。1 周もしない‘時間’における円板の軌跡はどちらも〈中身の詰ったチューブ〉であり,両者は局所的には違いがないのである。まったく同様に,〈トーラス〉と〈クラインの壺〉も局所的には〈チューブ〉で違いはない。
上では‘映画’の方法を正確に説明するために数式を少し使ったが,‘映画’で表現される図形を理解するためには数学的素養を必要としない。図形の一部が動いてできる軌跡を想像できさえすれば十分である。したがって,浅田 [A] が〈中身の詰ったクラインの壺〉を理解しているとしても不思議はない。実際,浅田[A]が「クラインの壺の作り方」[A; pp.207--208] を〈チューブ〉を使って説明しているのは流体が流れる〈中身〉を念頭に置いているからである,と好意的に解釈することも可能である。(浅田彰は他所で「クラインの壺の底面というのも,チューブの断面とまったく同じこと」と述べている。)
図 1 の隣の図 2 を参照しながら,‘映画 2’を見てみよう。撮影された場所も主役の円板も‘映画 2’と同じだがストーリーは少し異なる。‘時刻’t = 0 で底面にいた円板は,‘時刻’t,0<t<1,では‘映画 1’とほぼ同じように上方に平行移動すると同時に小さくなって行くが‘映画 1’ほどは小さくならない;‘時刻’t = 1 では 1 点に縮まず図 2 の「貨幣」のところにいる;‘時刻’t,1<t<2,では右方の細い管に沿って下方に移動すると同時に破線に沿ってしだいに大きくなって行く;‘時刻’t = 2 ではもとの底面に重なるが表裏が逆になっている(表裏の反転は〈中身の詰ったトーラス〉では起らなかった);そして始めの‘時刻’t = 0 に戻り同じストーリーを繰り返す。‘映画 2’で 4 次元時空に実現される図形を〈中身の詰ったクラインの壺〉と呼ぶ。(nack 氏の gif アニメで先端の円板の運動のみに注目すると‘映画 2’を見ることができる。)円板の代りに円板の円周のみを主役にして同じストーリーで‘映画’を撮影した場合,4 次元時空に実現される図形は〈クラインの壺〉に他ならない。(註:実は数学的には円板はほとんど動かずに最後の一瞬でひっくり返るだけでよい。円板が大きさを変えつつ移動するとしたのは図 2 に合わせたいという気分による。)
‘映画 2’を‘映画 1’と比較すれば,〈中身の詰ったクラインの壺〉が〈円錐〉を少しだけ幾何学的に変形したものであることがわかる。〈中身の詰ったトーラス〉と〈中身の詰ったクラインの壺〉の違いは,円板が 1 周して元に戻ったとき表裏がそのままか逆になるかの違いしかない。1 周もしない‘時間’における円板の軌跡はどちらも〈中身の詰ったチューブ〉であり,両者は局所的には違いがないのである。まったく同様に,〈トーラス〉と〈クラインの壺〉も局所的には〈チューブ〉で違いはない。
上では‘映画’の方法を正確に説明するために数式を少し使ったが,‘映画’で表現される図形を理解するためには数学的素養を必要としない。図形の一部が動いてできる軌跡を想像できさえすれば十分である。したがって,浅田 [A] が〈中身の詰ったクラインの壺〉を理解しているとしても不思議はない。実際,浅田[A]が「クラインの壺の作り方」[A; pp.207--208] を〈チューブ〉を使って説明しているのは流体が流れる〈中身〉を念頭に置いているからである,と好意的に解釈することも可能である。(浅田彰は他所で「クラインの壺の底面というのも,チューブの断面とまったく同じこと」と述べている。)
37. 第X期批評空間・共同討議
2006/09/03(日) 23:44:12
2.2 主張
《クラインの壺》=〈中身の詰ったクラインの壺〉。ただし,浅田[A]は,〈中身〉=〈中身の詰ったクラインの壺〉−〈クラインの壺〉を循環運動の場としてゴムボールの中身のような閉じた空洞と考えていると解釈する:《クラインの壺》=〈クラインの壺〉+〈中身〉。そして,この解釈の下で浅田[A]は自然に読める。したがって,浅田[A]の《クラインの壺》のモデルは間違っていない。(註:モデルとしての必然性や有効性には議論の余地が残るが,この小論では論じない。)
《クラインの壺》=〈中身の詰ったクラインの壺〉。ただし,浅田[A]は,〈中身〉=〈中身の詰ったクラインの壺〉−〈クラインの壺〉を循環運動の場としてゴムボールの中身のような閉じた空洞と考えていると解釈する:《クラインの壺》=〈クラインの壺〉+〈中身〉。そして,この解釈の下で浅田[A]は自然に読める。したがって,浅田[A]の《クラインの壺》のモデルは間違っていない。(註:モデルとしての必然性や有効性には議論の余地が残るが,この小論では論じない。)
38. 第X期批評空間・共同討議
2006/09/03(日) 23:46:10
3 根拠
3.1 で《クラインの壺》が〈中身〉を含むと解釈できる根拠を挙げ,3.2 でその解釈の下で浅田[A]が自然に読めることを例証する。
3.1 《クラインの壺》が〈中身〉を含むこと
《クラインの壺》が〈中身〉を含むと解釈できる根拠を3つ挙げる。
・《クラインの壺》が〈中身〉を含むと読める記述が浅田[A]にある:
「《クラインの壺》に投げ込まれ」[A; p.197];
「《クラインの壺》の中を」[A; p.206];
「《クラインの壺》……の中では」[A; p.222];他数箇所で同様の記述。
・《クラインの壺》の図 [A; p.215] に商品世界としての底面が描かれている:
〈クラインの壺〉/〈擬似クラインの壺〉/〈似非クラインの壺〉に底面はないが
〈中身の詰ったクラインの壺〉は底面を含む。
・前近代モデルとしての《円錐》も〈中身〉を含む:
《円錐》の図 [A; p.188] の〈中身〉に線分が描かれているからである。3次元の立体の変形がいきなり2次元の曲面になっては不自然である。したがって, 《円錐》の変形である《クラインの壺》も〈中身〉を含む。
3.1 で《クラインの壺》が〈中身〉を含むと解釈できる根拠を挙げ,3.2 でその解釈の下で浅田[A]が自然に読めることを例証する。
3.1 《クラインの壺》が〈中身〉を含むこと
《クラインの壺》が〈中身〉を含むと解釈できる根拠を3つ挙げる。
・《クラインの壺》が〈中身〉を含むと読める記述が浅田[A]にある:
「《クラインの壺》に投げ込まれ」[A; p.197];
「《クラインの壺》の中を」[A; p.206];
「《クラインの壺》……の中では」[A; p.222];他数箇所で同様の記述。
・《クラインの壺》の図 [A; p.215] に商品世界としての底面が描かれている:
〈クラインの壺〉/〈擬似クラインの壺〉/〈似非クラインの壺〉に底面はないが
〈中身の詰ったクラインの壺〉は底面を含む。
・前近代モデルとしての《円錐》も〈中身〉を含む:
《円錐》の図 [A; p.188] の〈中身〉に線分が描かれているからである。3次元の立体の変形がいきなり2次元の曲面になっては不自然である。したがって, 《円錐》の変形である《クラインの壺》も〈中身〉を含む。
39. 第X期批評空間・共同討議
2006/09/03(日) 23:51:04
3.2 解釈の自然性
《クラインの壺》=〈中身の詰ったクラインの壺〉という解釈の下で浅田 [A] が自然に読めることを 3 箇所の引用と解釈により例証する。解釈では 2.1 で説明した‘映画’の記述を援用する。
浅田 [A; p.196]:
「それ(近代資本制における脱コード化の運動の基本型:引用者註)を図2の《クラインの壺》で表わし,図1と対比することにしよう。この図に示す通り,貨幣は,中心といっても静止した超越的な原点ではなくいわば吸入口のようなものであり,すべてはそこから絶えざる運動の中に吸い込まれていく。」
解釈:
貨幣(ここでの貨幣はモノでなくシステムであろう)は点でなく‘時刻’t = 1 における円板の円周=吸入口であり,‘時刻’t = 0 で円板の内部にあった点は‘時刻’の経過とともにその吸入口に吸い込まれ絶え間ない循環運動を続ける。
浅田 [A; p.215]:
「マルクスがそれ(価値形態論:引用者註)に続く流通論で述べている通り,貨幣はたえず再投下されて商品に化身し,売れることによって再び貨幣に戻るという運動を続けることによってはじめて資本として生きるのであり,神や王として超越的な位置に安住していたのでは文字どおり死に金にすぎないのである。ひとたびメタ・レベルに隔離されていた筈の貨幣がオブジェクト・レベルの只中に姿を現わし,そこからまたメタ・レベルへとジャンプする。貨幣−資本が展開する,この絶え間ない運動を,これもまた以前に論じたように,図2の《クラインの壺》によって図示することにしよう。」
解釈:
‘時刻’t = 1 で円板の内部にあった貨幣(ここでの貨幣はモノであろう)は,資本として再投下されることによって‘時刻’t = 2 で元の底面の位置の円板の内部=商品世界に商品として現れその商品は売れることによって商品世界から離れ再び‘時刻’t = 1 で貨幣に戻る,という絶え間ない循環運動を続ける。
浅田 [A; p.220]:
「ふたつ(媒介/自己:引用者註)のレベルをパタンパタンと交替させながらこけつまろびつ走り続ける「主体」たちの競争過程が,そのつどパラドキシカル・ジャンプを繰り返しながら進行する貨幣−資本の運動過程と同型であることは,あらためて指摘するまでもない。」
解釈:
‘時刻’t = 0 で円板の内部にいた自己 s1 は,‘時刻’t = 1 で目標としていた媒介 S1 に追いついたと思ったら,‘時刻’t = 2 で別の自己 s2 と化し別の媒介 S2 を目標とし追いつこうとする,というように近代の「主体」は自分自身に追いつこうと走り続ける。媒介/自己という二つのレベルを交互に交替させる「主体」の競争過程は,貨幣/商品という二つのレベルを交互に交替させる貨幣−資本の運動過程と同型である。自己 s1/媒介 S1 が《クラインの壺》の〈中身〉を1周して元に戻ると別の自己 s2/媒介 S2 と化すことは,商品 s1/貨幣 S1 が《クラインの壺》の〈中身〉を1周して元に戻ると別の商品 s2/貨幣 S2 と化すこと(流通論)と同型である。このことは幾何学的にはどの‘時刻’t の円板も1周して元に戻ると元の円板に重なるが表裏は逆になる (2.1) ことに対応している。(註:最後の一文は好意的解釈と言うより解釈者好みの深読みかも知れない。)
《クラインの壺》=〈中身の詰ったクラインの壺〉という解釈の下で浅田 [A] が自然に読めることを 3 箇所の引用と解釈により例証する。解釈では 2.1 で説明した‘映画’の記述を援用する。
浅田 [A; p.196]:
「それ(近代資本制における脱コード化の運動の基本型:引用者註)を図2の《クラインの壺》で表わし,図1と対比することにしよう。この図に示す通り,貨幣は,中心といっても静止した超越的な原点ではなくいわば吸入口のようなものであり,すべてはそこから絶えざる運動の中に吸い込まれていく。」
解釈:
貨幣(ここでの貨幣はモノでなくシステムであろう)は点でなく‘時刻’t = 1 における円板の円周=吸入口であり,‘時刻’t = 0 で円板の内部にあった点は‘時刻’の経過とともにその吸入口に吸い込まれ絶え間ない循環運動を続ける。
浅田 [A; p.215]:
「マルクスがそれ(価値形態論:引用者註)に続く流通論で述べている通り,貨幣はたえず再投下されて商品に化身し,売れることによって再び貨幣に戻るという運動を続けることによってはじめて資本として生きるのであり,神や王として超越的な位置に安住していたのでは文字どおり死に金にすぎないのである。ひとたびメタ・レベルに隔離されていた筈の貨幣がオブジェクト・レベルの只中に姿を現わし,そこからまたメタ・レベルへとジャンプする。貨幣−資本が展開する,この絶え間ない運動を,これもまた以前に論じたように,図2の《クラインの壺》によって図示することにしよう。」
解釈:
‘時刻’t = 1 で円板の内部にあった貨幣(ここでの貨幣はモノであろう)は,資本として再投下されることによって‘時刻’t = 2 で元の底面の位置の円板の内部=商品世界に商品として現れその商品は売れることによって商品世界から離れ再び‘時刻’t = 1 で貨幣に戻る,という絶え間ない循環運動を続ける。
浅田 [A; p.220]:
「ふたつ(媒介/自己:引用者註)のレベルをパタンパタンと交替させながらこけつまろびつ走り続ける「主体」たちの競争過程が,そのつどパラドキシカル・ジャンプを繰り返しながら進行する貨幣−資本の運動過程と同型であることは,あらためて指摘するまでもない。」
解釈:
‘時刻’t = 0 で円板の内部にいた自己 s1 は,‘時刻’t = 1 で目標としていた媒介 S1 に追いついたと思ったら,‘時刻’t = 2 で別の自己 s2 と化し別の媒介 S2 を目標とし追いつこうとする,というように近代の「主体」は自分自身に追いつこうと走り続ける。媒介/自己という二つのレベルを交互に交替させる「主体」の競争過程は,貨幣/商品という二つのレベルを交互に交替させる貨幣−資本の運動過程と同型である。自己 s1/媒介 S1 が《クラインの壺》の〈中身〉を1周して元に戻ると別の自己 s2/媒介 S2 と化すことは,商品 s1/貨幣 S1 が《クラインの壺》の〈中身〉を1周して元に戻ると別の商品 s2/貨幣 S2 と化すこと(流通論)と同型である。このことは幾何学的にはどの‘時刻’t の円板も1周して元に戻ると元の円板に重なるが表裏は逆になる (2.1) ことに対応している。(註:最後の一文は好意的解釈と言うより解釈者好みの深読みかも知れない。)
40. 第X期批評空間・共同討議
2006/09/03(日) 23:52:34
文献
[A] 浅田 彰『構造と力』勁草書房
[Y] 山形浩生「『「知」の欺瞞』ローカル戦:浅田彰のクラインの壺をめぐって
(というか,浅田式にはめぐらないのだ)」
[K] 黒木 玄「浅田彰のクラインの壺について」
--------------------------------------------------------------------------------
履歴
2002-04-05:nack 氏の gif アニメ,他所,を追加。
2002-04-03:表現を修正して公開。
2002-03-28:作成。
[A] 浅田 彰『構造と力』勁草書房
[Y] 山形浩生「『「知」の欺瞞』ローカル戦:浅田彰のクラインの壺をめぐって
(というか,浅田式にはめぐらないのだ)」
[K] 黒木 玄「浅田彰のクラインの壺について」
--------------------------------------------------------------------------------
履歴
2002-04-05:nack 氏の gif アニメ,他所,を追加。
2002-04-03:表現を修正して公開。
2002-03-28:作成。
41. 第X期批評空間・共同討議
2006/09/03(日) 23:54:29
42. 第X期批評空間・共同討議
2006/09/03(日) 23:58:12
43. 第X期批評空間・共同討議
2006/09/04(月) 00:00:52
44. 第X期批評空間・共同討議
2006/09/04(月) 00:02:21
45. 第X期批評空間・共同討議
2006/09/04(月) 00:04:54
46. 第X期批評空間・共同討議
2006/09/04(月) 00:09:46
■ロラン・バルトと現代〜テクストの快楽が意味するもの〜
担当講師:渡邊 守章(放送大学名誉教授・演出家)
担当講師:小林 康夫(東京大学大学院教授)
担当講師:石田 英敬(東京大学大学院教授)
<4月3日(日曜)20時 〜20時45分>
1960年代に「構造主義・四天王」の一人とされたロラン・バルトは,死後22年を経て,その評価はいよいよ高くなっている。パリ・ポンピドゥー・センターにおける『ロラン・バルト展』と国際シンポジウム,ならびに『バルト・デッサン展』とバルト国際シンポジウムを素材に,ロラン・バルト評価の現在を問う。
担当講師:渡邊 守章(放送大学名誉教授・演出家)
担当講師:小林 康夫(東京大学大学院教授)
担当講師:石田 英敬(東京大学大学院教授)
<4月3日(日曜)20時 〜20時45分>
1960年代に「構造主義・四天王」の一人とされたロラン・バルトは,死後22年を経て,その評価はいよいよ高くなっている。パリ・ポンピドゥー・センターにおける『ロラン・バルト展』と国際シンポジウム,ならびに『バルト・デッサン展』とバルト国際シンポジウムを素材に,ロラン・バルト評価の現在を問う。
47. 第X期批評空間・共同討議
2006/09/04(月) 00:11:08
表象文化研究
「表象とは−理論的フレーム」
放送日時 4月3日(日)23:00〜23:45 放送大学
渡辺守章, 渡辺保, 浅田彰
「表象とは−理論的フレーム」
放送日時 4月3日(日)23:00〜23:45 放送大学
渡辺守章, 渡辺保, 浅田彰
48. 第X期批評空間・共同討議
2006/09/04(月) 00:13:16
批評機械とか知的サイボーグとか言われてた頃は
一定水準以下はハナもひっかけないというか
水準以下のものを持ち上げるにしても
あくまで戦略として用心深くって感じだった浅田彰
一定水準以下はハナもひっかけないというか
水準以下のものを持ち上げるにしても
あくまで戦略として用心深くって感じだった浅田彰
49. 第X期批評空間・共同討議
2006/09/04(月) 00:16:43
存在論的郵便的論理的合理的理知的体系的抽象的文化的芸術的貴族主義的理念的客観的本質的普遍的論旨明快頭脳明晰理路整然流暢高尚卓越理論的散文的分析的審美的批判的構造的知性技巧婉曲的平衡感覚聡明教授風言論絶妙正確精密的確要領規則厳守常識的社交的用意周到平穏冷静沈着上品自由闊達象徴的美辞麗句支配的技巧的優雅華麗余裕超然的洗練適応能力自己制御調和的民主的上流志向形式的実質的緻密定型的絢爛清潔専門的独創的天才的欧米外資系国際的異国風都会的西欧的北欧的仏蘭西的巴里的英国的倫敦的古代希臘風学術的哲学的科学的数理的幾何学的確率統計的微積分的物理的古典的音楽的詩的美的絵画的文学的法律的精神医学的金融工学的脱構築的財務主計的外交的最高裁判事的貿易商人風批評空間的表象文化論的西園寺公望的三浦雅士的柄谷行人的岩井克人的小林康夫的蓮実重彦的東浩紀的宮台真司的小室直樹的丸山真男的通説的芦部憲法的我妻民法的団藤刑法的塩野行政法的新堂民訴法的前田商法的旧制一校日比谷的筑駒的灘開成麻布風京大的思想的存在感ノ浅田彰
50. 第X期批評空間・共同討議
2006/09/04(月) 00:18:34
「あやしげなものにこそ真実がある」と言わんばかりの態度をとって、結果的にインチキに見事に騙された山形浩生と、そういう幼稚な態度にあくまでも距離をとっていた浅田の対比が印象的である。山形浩生の下品かつ幼稚な挑発にも、常識的かつ上品に反論していた浅田彰が結果的に正しかったわけだしね。
http://www.kojinkaratani.com/criticalspace/old/special/asada/i010313b.html
http://dw.diamond.ne.jp/yukoku_hodan/200311/(ページの下の方)
http://www.kojinkaratani.com/criticalspace/old/special/asada/i010313b.html
http://dw.diamond.ne.jp/yukoku_hodan/200311/(ページの下の方)
51. 第X期批評空間・共同討議
2006/09/04(月) 00:23:30
浅田彰の『構造と力』の凄い所:
あの時期(初版1983年だが、初出は1981-1983年)に、
あの歳(1957年生まれの浅田は1981-1983年当時24-26歳)で、
専門の経済学とは直接関係ない、
骨のある(ポスト)構造主義系著作を英独仏の原書で大量に読み、
しかもそれら知の潮流を明快に整理した、という所。
あの時期(初版1983年だが、初出は1981-1983年)に、
あの歳(1957年生まれの浅田は1981-1983年当時24-26歳)で、
専門の経済学とは直接関係ない、
骨のある(ポスト)構造主義系著作を英独仏の原書で大量に読み、
しかもそれら知の潮流を明快に整理した、という所。
52. 第X期批評空間・共同討議
2006/09/04(月) 00:24:51
浅田彰ゼミに入れる条件
1.英語・フラ語・ドイ語が完璧にできる
2.哲学ができる(現代思想に影響ある人の本は読んでる、知ってる)
3.経済で論文書ける
今まで一人もいないそうな・・・・
当たり前だけど。
1.英語・フラ語・ドイ語が完璧にできる
2.哲学ができる(現代思想に影響ある人の本は読んでる、知ってる)
3.経済で論文書ける
今まで一人もいないそうな・・・・
当たり前だけど。
53. 第X期批評空間・共同討議
2006/09/04(月) 00:26:05
浅田の京大生の頃の逸話は多いが、図書館の中で大量に英独仏の思想書や専門書を
床に積み上げて、そのなかに埋もれるようにしてひとり本を読んでいた、というのを
同時期京大にいた知人から聞いた事がある。
床に積み上げて、そのなかに埋もれるようにしてひとり本を読んでいた、というのを
同時期京大にいた知人から聞いた事がある。
54. 第X期批評空間・共同討議
2006/09/04(月) 00:28:23
『構造〜』の引用元本を原書で見てみたらいいですよ。
修士の院生であの本書けたというのはやはり驚きです。
引用元の著作の分量と言い、内容理解と言い。
修士の院生であの本書けたというのはやはり驚きです。
引用元の著作の分量と言い、内容理解と言い。
55. 第X期批評空間・共同討議
2006/09/04(月) 00:30:27
1)それまで見られなかった分野横断的な思潮の整理を独力で行った
2)その道の専門家でも理解が困難な諸著作の、原書での大量な読解
3)修士課程そこそこの年齢で1と2とを行った
以上です。また、これだけです。
2)その道の専門家でも理解が困難な諸著作の、原書での大量な読解
3)修士課程そこそこの年齢で1と2とを行った
以上です。また、これだけです。
56. 第X期批評空間・共同討議
2006/09/04(月) 00:41:34
浅田は10代のころから原書でラカン理解してた。
57. 第X期批評空間・共同討議
2006/09/04(月) 00:44:44
構造と力が構造主義・ポスト構造主義に関する1流の教科書だとすると
「歴史の終わりを越えて」はポスト冷戦時代における政治哲学の教科書
「20世紀文化の臨界」は20世紀の文学における最高級の教科書
「歴史の終わりを越えて」はポスト冷戦時代における政治哲学の教科書
「20世紀文化の臨界」は20世紀の文学における最高級の教科書
58. 第X期批評空間・共同討議
2006/09/05(火) 04:12:03
平成2年5月1日朝日新聞夕刊
対談 大江健三郎氏&浅田彰氏
近代批評について
大江:僕は浅田さんのお仕事をずっと読んできましたが、小説についての発言に良い感情を抱いています。それは、なにより理解可能だからです。文学を始めたころ、たまたま浅田さんが生まれられた年ですが、つねに不安だったのは、文芸批評がよく理解できないことでした。「季刊思潮」で、浅田さん、柄谷さんらが日本の批評を回顧された座談会も気持ちが良かった。難しいが理解はできるので。
浅田:あそこではいろいろ放言しちゃって(笑い)。
(つづく)
対談 大江健三郎氏&浅田彰氏
近代批評について
大江:僕は浅田さんのお仕事をずっと読んできましたが、小説についての発言に良い感情を抱いています。それは、なにより理解可能だからです。文学を始めたころ、たまたま浅田さんが生まれられた年ですが、つねに不安だったのは、文芸批評がよく理解できないことでした。「季刊思潮」で、浅田さん、柄谷さんらが日本の批評を回顧された座談会も気持ちが良かった。難しいが理解はできるので。
浅田:あそこではいろいろ放言しちゃって(笑い)。
(つづく)
59. 第X期批評空間・共同討議
2006/09/05(火) 04:15:53
大江:浅田さんにも理解可能な人間とそうでないタイプとがあるようですね。理解可能なタイプが、以前、山口昌男さんについていわれた「ヘルメス型」じゃないか。日本人によくある、暗い心のひだにこだわって考えこむのとは違い暗い所も明るい所も自由に行き来する知識人。逆に、遺恨というものが文章を書く動機になっている人間をあなたは理解できない。ところが、日本の批評の世界にはこのタイプが多いんですね。
浅田:批評的立場を選んだからには、徹底して明晰であろうとすべきでしょう。僕は奇妙な形で文学にひかれています。妙に小器用で、他のジャンルのことはよく分かったような気がするのに、文学はどうしても隅々まで理解できない。ただ、そういう不可解なものを語るとき、それをまねるのではなく、明晰な理解可能性という、いわば貧しい領土にとどまって、ギリギリのところで書いていきたい。それが、自分にとって本当に分からないものの発見につながると思っていますから。
(つづく)
浅田:批評的立場を選んだからには、徹底して明晰であろうとすべきでしょう。僕は奇妙な形で文学にひかれています。妙に小器用で、他のジャンルのことはよく分かったような気がするのに、文学はどうしても隅々まで理解できない。ただ、そういう不可解なものを語るとき、それをまねるのではなく、明晰な理解可能性という、いわば貧しい領土にとどまって、ギリギリのところで書いていきたい。それが、自分にとって本当に分からないものの発見につながると思っていますから。
(つづく)
60. 第X期批評空間・共同討議
2006/09/05(火) 04:18:23
大江:浅田さんには「自分は単なる明晰にすぎない」という、つつましい自己規定があるんですね。明晰な判断力ではとらえきれないものがあって、それは明晰さより上のレベルだと思っていられる。天才というようなものが働くレベルというか。文学というあいまいな場所で生きている人間からすると、上等な誤解を受けている気がします・・・・・・(笑い)。
浅田:ところが不思議な転倒現象があるんです。戦後の文学界で最も明晰なのは三島由紀夫であり、明晰であるべき批評家たちが不透明に情念を語ることに終始したんですね。三島は、最初から作品の終わりが見え、そこから計算しつくされたやり方で作品を組み立てて、きらびやかであるだけいっそう空虚な言葉の結晶を残した。他方、小林秀雄の亜流の批評家たちは、作品をダシにおのれを語るばかりだった。二重の貧困です。
(つづく)
浅田:ところが不思議な転倒現象があるんです。戦後の文学界で最も明晰なのは三島由紀夫であり、明晰であるべき批評家たちが不透明に情念を語ることに終始したんですね。三島は、最初から作品の終わりが見え、そこから計算しつくされたやり方で作品を組み立てて、きらびやかであるだけいっそう空虚な言葉の結晶を残した。他方、小林秀雄の亜流の批評家たちは、作品をダシにおのれを語るばかりだった。二重の貧困です。
(つづく)
61. 第X期批評空間・共同討議
2006/09/05(火) 04:22:44
大江:僕は三島にたいしてアンビバレンツ(両義的)だと批判されます。彼の政治的役割は単純に邪悪なものだし、最後の一行が浮かんでから書くというのも、間違っていると僕は思う。しかし、あのようにして死んでみると、文学的な実質のある不透明さが年々加わるのを感じます。
もともと、明解なことはやさしく書けるが、不透明なことは書きにくい。それが言語の本質じゃないでしょうか。僕は学生として小説を書きながら、教室では秀才じゃないのに、これは秀才の小説にすぎないと考えていた。なんとか、不透明なものを導入したい。それが想像力論を考え始めた動機です。
小説を書くとき、よく分かっていると思うことは、むしろ知らない方へ、不透明なところへずらそうとした。批評家から僕が愚鈍だといわれるのは、その意味では意図したところでした(笑い)。
一方で批評家が、明瞭かつフェアな言葉では、作家も読者も驚かせないので、不透明な言い方をすることがあった。それは小林秀雄の弱点で、正直なところ若い批評家にも伝わっていますね。
(つづく)
もともと、明解なことはやさしく書けるが、不透明なことは書きにくい。それが言語の本質じゃないでしょうか。僕は学生として小説を書きながら、教室では秀才じゃないのに、これは秀才の小説にすぎないと考えていた。なんとか、不透明なものを導入したい。それが想像力論を考え始めた動機です。
小説を書くとき、よく分かっていると思うことは、むしろ知らない方へ、不透明なところへずらそうとした。批評家から僕が愚鈍だといわれるのは、その意味では意図したところでした(笑い)。
一方で批評家が、明瞭かつフェアな言葉では、作家も読者も驚かせないので、不透明な言い方をすることがあった。それは小林秀雄の弱点で、正直なところ若い批評家にも伝わっていますね。
(つづく)
62. 第X期批評空間・共同討議
2006/09/05(火) 04:25:13
浅田:小林秀雄的な伝統の堕落した形態ですね。「私を見ろ」と言って居直るんだけれども、そんなもの見たってしかたがない。
批評や理論の役割は、いわく言い難いディテールを断念し、有用な地図を作ることです。ボルヘスが書いているように、実物大の精密な地図など使えない。抽象的で、ハンディで、旅やコミュニケーションの手段になり、常に書き換えられる地図を作ることが必要です。
大江:交易とどろぼうの神であるヘルメスの地図のように、ということですね。実際に地図として役立ちながら、精神の見取り図であるようなものが、今必要だと僕も思います。
(「資本主義について」につづく)
批評や理論の役割は、いわく言い難いディテールを断念し、有用な地図を作ることです。ボルヘスが書いているように、実物大の精密な地図など使えない。抽象的で、ハンディで、旅やコミュニケーションの手段になり、常に書き換えられる地図を作ることが必要です。
大江:交易とどろぼうの神であるヘルメスの地図のように、ということですね。実際に地図として役立ちながら、精神の見取り図であるようなものが、今必要だと僕も思います。
(「資本主義について」につづく)
63. 第X期批評空間・共同討議
2006/09/05(火) 04:28:37
資本主義について
浅田:敗戦後の日本では、自分で自分を律するマックス・ウェーバー流の近代的な主体を形成しようとしてきました。だが、高度経済成長が終わって、そんな理念はどうでもいいではないか、ということになった。神道的であれ、仏教的であれ、ある種の「場」の中に、前主体的な形で包み込まれている方がいい、という日本古来の共同的心性も復活してきた。加えて、現代のテクノロジーは、ほぼ万能のブラックボックスで、原理は分からなくても欲望を満たしてくれる。壊れても回路ごと取り換えられる。そんなテクノロジーのシステム全体が、一種母性的な構造を作っていて、ユーザーは幼児的段階のままそれに依存していられる。これは日本に限らず、普遍的です。ですから、現代はいわゆる主体形成なしの、バラバラの個が浮遊するようになったという印象が強いんですね。
(つづく)
浅田:敗戦後の日本では、自分で自分を律するマックス・ウェーバー流の近代的な主体を形成しようとしてきました。だが、高度経済成長が終わって、そんな理念はどうでもいいではないか、ということになった。神道的であれ、仏教的であれ、ある種の「場」の中に、前主体的な形で包み込まれている方がいい、という日本古来の共同的心性も復活してきた。加えて、現代のテクノロジーは、ほぼ万能のブラックボックスで、原理は分からなくても欲望を満たしてくれる。壊れても回路ごと取り換えられる。そんなテクノロジーのシステム全体が、一種母性的な構造を作っていて、ユーザーは幼児的段階のままそれに依存していられる。これは日本に限らず、普遍的です。ですから、現代はいわゆる主体形成なしの、バラバラの個が浮遊するようになったという印象が強いんですね。
(つづく)
64. 第X期批評空間・共同討議
2006/09/05(火) 04:30:25
大江:M・ウェーバー的とは、プロテスタント的ということですね。キリスト教的な思想が、現実の国際社会を生きていく上で具体的に力をもつという状況が、東欧を先端にあきらかとなっていると、そこの新しい文学を読んで思います。日本人の無信仰の態度が、対立を生み出すかもしれません。
(つづく)
(つづく)
65. 第X期批評空間・共同討議
2006/09/05(火) 04:33:35
浅田:ポスト・モダンに見えて実はプレ・モダンでもある無原理性・無主体性が、日本には極端な形で表れているけれど、それが普遍的になることはないでしょう。逆に、よしあしは別にして、ポスト・モダンの時代には古いといわれた「民主主義」「人権」といったモダンな大文字の理念で、正面からのコミュニケーションをする時代になりつつあります。日本の無主体のシステムと世界とのギャップは大きくなっていますね。
大江:冷戦がなくなりそうだといっても、南北問題は先鋭化しているし、極東の海の核兵器による世界終末のおそれも過ぎ去ってはいません。長編小説でいえば、作品の最後近くにすべての因子が活動を始めるように、現在の情勢が人類の終わりを予告するのか。それとも新しい希望の世紀への兆候なのか。僕にはよくわからないのです。
浅田:一般論として、近代とは、恐るべき終わりを予期しながら、常にそれを先送りすることによって均衡を保つプロセスです。
世界の終わりの日が分かっていたなら、だれもその日には紙幣を受け取らない。だから、その前日も、いや、巡り巡って今日も、受け取らない。必ず明日があるという前提のもとで、最終的決算、つまり恐慌を繰り延べていくのが資本主義です。
同じように、核による終末を直視しながらも先送りして、脆弱なものの安定な状態を保つのが、抑止による平和です。米ソが互いののど元にやりを突きつけた
状態がもっとも安全であるという倒錯した論理ですね。
いったん、このシステムに入った以上、そこからレベル・ダウンしていく時、サッチャーが言うように「春に氷が割れる時が一番危険だ」という、非常にアイロニカルな問題が存在するわけです。
大江:冷戦がなくなりそうだといっても、南北問題は先鋭化しているし、極東の海の核兵器による世界終末のおそれも過ぎ去ってはいません。長編小説でいえば、作品の最後近くにすべての因子が活動を始めるように、現在の情勢が人類の終わりを予告するのか。それとも新しい希望の世紀への兆候なのか。僕にはよくわからないのです。
浅田:一般論として、近代とは、恐るべき終わりを予期しながら、常にそれを先送りすることによって均衡を保つプロセスです。
世界の終わりの日が分かっていたなら、だれもその日には紙幣を受け取らない。だから、その前日も、いや、巡り巡って今日も、受け取らない。必ず明日があるという前提のもとで、最終的決算、つまり恐慌を繰り延べていくのが資本主義です。
同じように、核による終末を直視しながらも先送りして、脆弱なものの安定な状態を保つのが、抑止による平和です。米ソが互いののど元にやりを突きつけた
状態がもっとも安全であるという倒錯した論理ですね。
いったん、このシステムに入った以上、そこからレベル・ダウンしていく時、サッチャーが言うように「春に氷が割れる時が一番危険だ」という、非常にアイロニカルな問題が存在するわけです。
66. 第X期批評空間・共同討議
2006/09/05(火) 04:35:24
大江:確かに、人間が一度作りだしたものは、帳消しにはならない。核システムの危険性は一挙に消滅はしないし、通常兵器の軍縮への苦難の道も待っている。これまで世界の指導者が核兵器を手掛かりに作ってきた平和観を根本的に変えなければならぬことなのだから。しかし人間は、東欧の解放のように、一度始めれば、敏速に進めるとも思います。
浅田:逆説的なことに、資本主義も核抑止システムも世界の終わりを繰り延べる形で動いてきた。だから、恐るべき終わりなしの共存のシステムに組み替えるのは、とても難しい作業です。それが二十世紀の終わりの十年に課せられた仕事でしょう。
大江:それは南北の共存の課題を、次に含むわけですね。
浅田:資本主義は環境問題でも決算を繰り延べてきた。やがて完全な技術が開発されるだろう、という何の確実性もない予見に基づいて、使える資源は使い、環境を汚しながら来てしまった。現時点で、地球にどんな責任をとるのかを、問われざるをえないでしょう。本当にポスト・モダンに意味があるとすれば、先にいけば必ずうまくいくというモダンな直線的思考を徹底的に疑うことだと思います。
浅田:逆説的なことに、資本主義も核抑止システムも世界の終わりを繰り延べる形で動いてきた。だから、恐るべき終わりなしの共存のシステムに組み替えるのは、とても難しい作業です。それが二十世紀の終わりの十年に課せられた仕事でしょう。
大江:それは南北の共存の課題を、次に含むわけですね。
浅田:資本主義は環境問題でも決算を繰り延べてきた。やがて完全な技術が開発されるだろう、という何の確実性もない予見に基づいて、使える資源は使い、環境を汚しながら来てしまった。現時点で、地球にどんな責任をとるのかを、問われざるをえないでしょう。本当にポスト・モダンに意味があるとすれば、先にいけば必ずうまくいくというモダンな直線的思考を徹底的に疑うことだと思います。
67. 第X期批評空間・共同討議
2006/09/05(火) 04:38:59
歴史について
大江:小説にたくしていま話をしたことは、浅田さんのご専門からいえば歴史ということではないでしょうか。
浅田:本来、終わりがなく不透明なるがゆえに生産的なものという意味で、小説と歴史は共通すると思います。一元的に分析しようとしても本質的にそのような分析をのりこえる重層性・異質性をもった事件の重なりが歴史なんですね。
ヘーゲルは、ナポレオンによって世界史は完成し、自分がそれを哲学的に総括すれば歴史は終わるのだ、と考えた。そこから後知恵で振り返ってみれば、これまで不幸な出来事と見えたものも、次に来るべき出来事を準備するための一つのハードルとして意味づけられて、見事な構図ができあがった。ところが、それはつねにその時点での錯覚で、幸か不幸か、歴史はそんな全体的意味づけからはみだして次から次へ動いていくわけです。
それを根本的に洞察したのがマルクスだった。彼は疎外とその克服というヘーゲル左派の「物語」から出発するけれど、亡命先ではそんな大言壮語は通用せず、現実的な問題についてどう考えるかを問われる。歴史とは実は、観念的な「大きな物語」ではなく、具体的な小さな問題の積み重ねなんだと気づいたとき、彼は本来のマルクスになったんだと思う。
もちろん、それはただちに共産主義を目的=終わりとするマルクス主義の「物語」へと変形されるけれど、その出発点の認識は、そういう全体化とつねにずれるところにあった。それを除くと、単にヘーゲル的な予定調和の「物語」になってしまい、そのときは目的のためには手段を選ばず、ということになって、粛清と収容所国家に帰着する。むしろ、そういう全体的な「物語」の批判こそマルクスの思想の核心であり、その意味は、遅れてきたヘーゲルの亜流によって「歴史の終わり」がうんぬんされるいま、ますます大きくなっていると思います。
大江:現実の世界をみるとき、歴史が終わりの方にさしかかって来てみると、細々とした現実的なひだひだの中に真実があらわれているということになりますか。
浅田:しかし、本当に終わりにさしかかったのかどうか。「近代は」実は終わりの後から始まった時代だとも言えるのではないか。
フランスでいうと、1789年からの大革命が近代化・世俗化の革命だとすれば、1848年の革命はむしろ、それによって生じた疎外をどう克服するかという、ロマン主義的・宗教的な革命だった。だが、そのすべての成果が、ナポレオンの甥である以外に何の取り柄もない人物によって簒奪されてしまう。その段階で、空想的社会主義やヘーゲル左派、あるいはロマン主義のありとあらゆる「物語」が終わってしまった。
すべての「物語」が語りつくされたという幻滅から、しかし、モダニズムは出発するわけです。ある意味で、1851年にすでにポストモダンになっている。あらゆるものが終わったというところから語りだしたポストモダニストたちが真のモダニストになるんですね。
(つづく)
大江:小説にたくしていま話をしたことは、浅田さんのご専門からいえば歴史ということではないでしょうか。
浅田:本来、終わりがなく不透明なるがゆえに生産的なものという意味で、小説と歴史は共通すると思います。一元的に分析しようとしても本質的にそのような分析をのりこえる重層性・異質性をもった事件の重なりが歴史なんですね。
ヘーゲルは、ナポレオンによって世界史は完成し、自分がそれを哲学的に総括すれば歴史は終わるのだ、と考えた。そこから後知恵で振り返ってみれば、これまで不幸な出来事と見えたものも、次に来るべき出来事を準備するための一つのハードルとして意味づけられて、見事な構図ができあがった。ところが、それはつねにその時点での錯覚で、幸か不幸か、歴史はそんな全体的意味づけからはみだして次から次へ動いていくわけです。
それを根本的に洞察したのがマルクスだった。彼は疎外とその克服というヘーゲル左派の「物語」から出発するけれど、亡命先ではそんな大言壮語は通用せず、現実的な問題についてどう考えるかを問われる。歴史とは実は、観念的な「大きな物語」ではなく、具体的な小さな問題の積み重ねなんだと気づいたとき、彼は本来のマルクスになったんだと思う。
もちろん、それはただちに共産主義を目的=終わりとするマルクス主義の「物語」へと変形されるけれど、その出発点の認識は、そういう全体化とつねにずれるところにあった。それを除くと、単にヘーゲル的な予定調和の「物語」になってしまい、そのときは目的のためには手段を選ばず、ということになって、粛清と収容所国家に帰着する。むしろ、そういう全体的な「物語」の批判こそマルクスの思想の核心であり、その意味は、遅れてきたヘーゲルの亜流によって「歴史の終わり」がうんぬんされるいま、ますます大きくなっていると思います。
大江:現実の世界をみるとき、歴史が終わりの方にさしかかって来てみると、細々とした現実的なひだひだの中に真実があらわれているということになりますか。
浅田:しかし、本当に終わりにさしかかったのかどうか。「近代は」実は終わりの後から始まった時代だとも言えるのではないか。
フランスでいうと、1789年からの大革命が近代化・世俗化の革命だとすれば、1848年の革命はむしろ、それによって生じた疎外をどう克服するかという、ロマン主義的・宗教的な革命だった。だが、そのすべての成果が、ナポレオンの甥である以外に何の取り柄もない人物によって簒奪されてしまう。その段階で、空想的社会主義やヘーゲル左派、あるいはロマン主義のありとあらゆる「物語」が終わってしまった。
すべての「物語」が語りつくされたという幻滅から、しかし、モダニズムは出発するわけです。ある意味で、1851年にすでにポストモダンになっている。あらゆるものが終わったというところから語りだしたポストモダニストたちが真のモダニストになるんですね。
(つづく)
68. 第X期批評空間・共同討議
2006/09/05(火) 04:42:05
大江:小説でいえば、ヘーゲルの役割を果たしたのはトルストイです。彼は完全な物語を書いてしまった。これ以上の小説はないと作品自体がいっています。
そのあとにフロベールが出てきて、終わったはずの小説を書く。「感情教育」は1848年の革命を、決して物語にならないように書いたものです。物語のディコンストラクション(脱構築)として。彼以後のすべての近代小説は、終わった物語をもう一度書く、というものなんです。
ロマン(物語)が終わったという意味で、現代はアンチ・ロマンの時代だと思いますが、歴史が終わったとして、その反対の言葉は何でしょう。
浅田:「物語」としての「歴史」の反対は「構造」でしょう。
ただ、構造主義の真の意味は、構造的に見るからこそわかる歴史性を浮き上がらせるところにある。たとえば、連続的な変化は見えなくとも、それぞれの時点で構造が変容しているとき、何かそこには非連続的な変化があったはずなんですね。それが単なる「物語」をこえた「歴史」というものにつながると思うんです。
大江:通時的でない、共時的な歴史というものじゃないでしょうか。レヴィ=ストロースが構造論の側から、サルトルの歴史の見方を批判しましたね。若いころ、実存主義者のつもりでいた僕は、反感を持って読みはじめながら「確かに歴史はここにある」と説得されたことがありました。
いま、共時的、構造的な意味で明確になった歴史の全局面が、ヨーロッパで一挙に現れてきている。危機ではあるけれど、1848年に始まったポストモダンがその全体を検討しやすい形で示されているわけですね。
(おわり)
そのあとにフロベールが出てきて、終わったはずの小説を書く。「感情教育」は1848年の革命を、決して物語にならないように書いたものです。物語のディコンストラクション(脱構築)として。彼以後のすべての近代小説は、終わった物語をもう一度書く、というものなんです。
ロマン(物語)が終わったという意味で、現代はアンチ・ロマンの時代だと思いますが、歴史が終わったとして、その反対の言葉は何でしょう。
浅田:「物語」としての「歴史」の反対は「構造」でしょう。
ただ、構造主義の真の意味は、構造的に見るからこそわかる歴史性を浮き上がらせるところにある。たとえば、連続的な変化は見えなくとも、それぞれの時点で構造が変容しているとき、何かそこには非連続的な変化があったはずなんですね。それが単なる「物語」をこえた「歴史」というものにつながると思うんです。
大江:通時的でない、共時的な歴史というものじゃないでしょうか。レヴィ=ストロースが構造論の側から、サルトルの歴史の見方を批判しましたね。若いころ、実存主義者のつもりでいた僕は、反感を持って読みはじめながら「確かに歴史はここにある」と説得されたことがありました。
いま、共時的、構造的な意味で明確になった歴史の全局面が、ヨーロッパで一挙に現れてきている。危機ではあるけれど、1848年に始まったポストモダンがその全体を検討しやすい形で示されているわけですね。
(おわり)
69. 第X期批評空間・共同討議
2006/09/05(火) 04:45:20
スタイルについて
浅田:現在は資本主義や、核抑止のシステムが大きな転換点にさしかかっている。展望は見えないけれど、だからといってペシミスティックになる理由は何もない。むしろ僕は、ほとんど無根拠なオプティミズムを持っています。
大江:根拠がないというあなたの言い方に、むしろ確信が感じられます。それは浅田さんの経済学者・思想家として生きてこられた上での、学問と生活に根ざしたスタイルから僕が感じることなんです。
浅田:それはあやしいけれど、スタイルというのは重要です。立ち居振る舞い、文章でいえば文体。大きな価値体系が信じられなくなった場所で現れてくるのは、多分そうしたスタイルです。審美主義的なダンディズムでも硬直した倫理でもない、美学イコール倫理学のようなもの。M・フーコーが晩年、古代ギリシャに帰って考えようとしたのは、そういうものではないでしょうか。
大江:僕は文学を通してスタイルを考えてきました。それはさまざまに現れますが、一つは「声」としてです。小説を読んで書き手の「声」が聞こえてくる時、その作品と作家にはスタイルがあるのです。外国人にとって日本人という個々の作品から「声」は発見しにくいのではないか。
クンデラが、与えられ、よくわからなくても使うことができ、すぐ取り換えられる「紋切り型思想」を批判したことがあります。つまり、あなたのいわれたテクノロジーのタイプの紋切り型のスタイルが日本を席巻しています。
浅田:小津安二郎の映画の老夫婦の会話は、中身が紋切り型であっても、スタイルがあり、それがディグニティにつながる。
大江:エジプトの神話時代の彫刻、インカやマヤの芸術のように、確固としたスタイルをもつものはなぜディグニティ、威厳を感じさせるのでしょうね。
浅田:柔軟に変化しながらも、どうしても譲りえない、そんなシンギュラリティ(独自性)が出てきたとき、ディグニティと呼ぶのかもしれませんね。
(つづく)
浅田:現在は資本主義や、核抑止のシステムが大きな転換点にさしかかっている。展望は見えないけれど、だからといってペシミスティックになる理由は何もない。むしろ僕は、ほとんど無根拠なオプティミズムを持っています。
大江:根拠がないというあなたの言い方に、むしろ確信が感じられます。それは浅田さんの経済学者・思想家として生きてこられた上での、学問と生活に根ざしたスタイルから僕が感じることなんです。
浅田:それはあやしいけれど、スタイルというのは重要です。立ち居振る舞い、文章でいえば文体。大きな価値体系が信じられなくなった場所で現れてくるのは、多分そうしたスタイルです。審美主義的なダンディズムでも硬直した倫理でもない、美学イコール倫理学のようなもの。M・フーコーが晩年、古代ギリシャに帰って考えようとしたのは、そういうものではないでしょうか。
大江:僕は文学を通してスタイルを考えてきました。それはさまざまに現れますが、一つは「声」としてです。小説を読んで書き手の「声」が聞こえてくる時、その作品と作家にはスタイルがあるのです。外国人にとって日本人という個々の作品から「声」は発見しにくいのではないか。
クンデラが、与えられ、よくわからなくても使うことができ、すぐ取り換えられる「紋切り型思想」を批判したことがあります。つまり、あなたのいわれたテクノロジーのタイプの紋切り型のスタイルが日本を席巻しています。
浅田:小津安二郎の映画の老夫婦の会話は、中身が紋切り型であっても、スタイルがあり、それがディグニティにつながる。
大江:エジプトの神話時代の彫刻、インカやマヤの芸術のように、確固としたスタイルをもつものはなぜディグニティ、威厳を感じさせるのでしょうね。
浅田:柔軟に変化しながらも、どうしても譲りえない、そんなシンギュラリティ(独自性)が出てきたとき、ディグニティと呼ぶのかもしれませんね。
(つづく)
70. 第X期批評空間・共同討議
2006/09/05(火) 04:52:40
大江:人間が終わりを見すえねばならぬとき、上品なスタイルで最後まで生きるか、ジタバタ悪あがきするか、二つあるようですが、今日の日本人は後の型の民族だと思いますね。
浅田:まあ、後のほうですね(笑い)。
大江:統一の動きをとくに西独の側から見ると、ドイツ人はまず民族の品位を考えているようです。
浅田:ドイツはともあれ、チェコスロバキアの大統領になったハベルのような東欧人を見ていると、深い絶望の中に現れるやさしさみたいなものがありますね。シニカルだからこそ、柔らかく、威張らない。
大江:ハベルは獄中からの夫人への手紙を読むと、ユーモアとデリカシーのある人です。それと明快な原理性。ソ連の侵入のとき、「プラハの春」は歴史的な出来事だったから、今度は受け身の抵抗をすすめれば、やがて力をあらわしうるだろうというクンデラと対立した。ハベルは、自由と合法性は欠くべからざるもので、それのないアブノーマルな状態はただちにあらためられねばならないといった。原理はゆずらず、しなやかに、ねばり強くやる人ですね。
浅田:ハベルの作品は、鋭くシニカルなのに全体として柔らかさがある。政治演説にもそれは出ています。彼は、大戦後、チェコにいたドイツ人を無差別に追放したことに対して公式に謝罪した。普通だとチェコは被害者なのに。それも見事なスタイルです。1930年代以降、ペンディングになっていた諸問題が、こうして精算されつつある。日本も考え直すべきところでしょう。
大江:維新の後、西欧にならう近代化のなかで、日本人独自の原則を作れるか、を考えた一人が漱石です。
スターンも知っていた彼は、日本の近代文学とともに小説を書き始めるが、「もう小説は終わった」とも感じていたのではないか。「彼岸過迄」「行人」は、まさに「終わった」それからのものです。政治家も官僚もヨーロッパ原則での近代化に突進するのに対して、それでは内面が満たされないことを体験的に彼は知っていた。しかし、日本主義に回帰するのでもない。仏教にも問いかけるが、答えのないまま死ぬ。
僕らは漱石以上に、世界に対して、日本人の個人と社会のイメージを対置する必要がある。それもまず、スタイルをもった個人が自由に、社会性を持って生きれば、そこに本当のスタイルをもった社会が生まれるはずです。個人に根ざすだけ、それは国際的にも理解されうる社会像だろうと思います。
(つづく)
浅田:まあ、後のほうですね(笑い)。
大江:統一の動きをとくに西独の側から見ると、ドイツ人はまず民族の品位を考えているようです。
浅田:ドイツはともあれ、チェコスロバキアの大統領になったハベルのような東欧人を見ていると、深い絶望の中に現れるやさしさみたいなものがありますね。シニカルだからこそ、柔らかく、威張らない。
大江:ハベルは獄中からの夫人への手紙を読むと、ユーモアとデリカシーのある人です。それと明快な原理性。ソ連の侵入のとき、「プラハの春」は歴史的な出来事だったから、今度は受け身の抵抗をすすめれば、やがて力をあらわしうるだろうというクンデラと対立した。ハベルは、自由と合法性は欠くべからざるもので、それのないアブノーマルな状態はただちにあらためられねばならないといった。原理はゆずらず、しなやかに、ねばり強くやる人ですね。
浅田:ハベルの作品は、鋭くシニカルなのに全体として柔らかさがある。政治演説にもそれは出ています。彼は、大戦後、チェコにいたドイツ人を無差別に追放したことに対して公式に謝罪した。普通だとチェコは被害者なのに。それも見事なスタイルです。1930年代以降、ペンディングになっていた諸問題が、こうして精算されつつある。日本も考え直すべきところでしょう。
大江:維新の後、西欧にならう近代化のなかで、日本人独自の原則を作れるか、を考えた一人が漱石です。
スターンも知っていた彼は、日本の近代文学とともに小説を書き始めるが、「もう小説は終わった」とも感じていたのではないか。「彼岸過迄」「行人」は、まさに「終わった」それからのものです。政治家も官僚もヨーロッパ原則での近代化に突進するのに対して、それでは内面が満たされないことを体験的に彼は知っていた。しかし、日本主義に回帰するのでもない。仏教にも問いかけるが、答えのないまま死ぬ。
僕らは漱石以上に、世界に対して、日本人の個人と社会のイメージを対置する必要がある。それもまず、スタイルをもった個人が自由に、社会性を持って生きれば、そこに本当のスタイルをもった社会が生まれるはずです。個人に根ざすだけ、それは国際的にも理解されうる社会像だろうと思います。
(つづく)
71. 第X期批評空間・共同討議
2006/09/05(火) 04:58:03
浅田:政治にせよ文学にせよ、結局は個々の人間のスタイルということに尽きると思います。ただ、個人といっても、西洋近代的な主体というがんじがらめの殻を絶対的なモデルにする必要はない。人と人、人と自然との、ある種の柔らかな関係性の作り方が、日本人には確実にある。それを全否定するのではなく、いい意味での柔らかさ、幼さをどう伸ばすかが大きな課題でしょう。西欧でも魅力的な人はどこか幼稚で、それがいい意味での老熟と一つになっていますね。
大江:維新後、日本にはクリエーティブな老練がなかったのではないか。元老には生産性がないし、政治家も思想家もタフな壮年と感じる人が多い。漱石が現に老熟の前に死んだ。実業家も、いつまでも生ぐさいのが評価される。老熟した知恵の場がないのでもありますね。
浅田:近代には、スタイルをもった老熟も失われている。子どもと老人が直結した形で出てくる少女マンガなどを見ると、若い人たちが、ある枯れた気配を探そうとしているのを感じます。
大江:老熟の問題が、河合隼雄さんたちをのぞけば、文化の問題とされないのは不思議ですね。
浅田:近代は未来にのびるポジティブなものばかり取り上げてきた。今は、ネガティブに見えるものがいかにポジティブでありうるかが大きな問題です。老人性痴呆症などもあって単純ではないけれど、美しい秋にたとえられる老熟があるとは思うんです。それがどうして文化に現れないのか。大島弓子のマンガで、登場人物が精神年齢で描かれ、小学生が青年に、両親は子どもみたいな姿になる。ああいう不思議な逆転が現実にあるのかもしれませんね。
大江:漫画が先だけれど、文学にも上昇志向の精神傾向とは無関係で、はっきりとした自分の生活のスタイルを持つ人が現れています。生き方のスタイルとして自分のモラルを示しています。かれらは大企業主義にも大文学主義にも毒されていない。
浅田:マイナーに見えながら、したたかなスタイル感覚をもった人たちが出てきているのは確かです。ただあえて言えば、僕は大文学はあると思う。大文学はすべて終わったといいながら、フロベールは大文学以外の何物でもない小説をかいた。同じ条件は今も生きています。
大江:維新後、日本にはクリエーティブな老練がなかったのではないか。元老には生産性がないし、政治家も思想家もタフな壮年と感じる人が多い。漱石が現に老熟の前に死んだ。実業家も、いつまでも生ぐさいのが評価される。老熟した知恵の場がないのでもありますね。
浅田:近代には、スタイルをもった老熟も失われている。子どもと老人が直結した形で出てくる少女マンガなどを見ると、若い人たちが、ある枯れた気配を探そうとしているのを感じます。
大江:老熟の問題が、河合隼雄さんたちをのぞけば、文化の問題とされないのは不思議ですね。
浅田:近代は未来にのびるポジティブなものばかり取り上げてきた。今は、ネガティブに見えるものがいかにポジティブでありうるかが大きな問題です。老人性痴呆症などもあって単純ではないけれど、美しい秋にたとえられる老熟があるとは思うんです。それがどうして文化に現れないのか。大島弓子のマンガで、登場人物が精神年齢で描かれ、小学生が青年に、両親は子どもみたいな姿になる。ああいう不思議な逆転が現実にあるのかもしれませんね。
大江:漫画が先だけれど、文学にも上昇志向の精神傾向とは無関係で、はっきりとした自分の生活のスタイルを持つ人が現れています。生き方のスタイルとして自分のモラルを示しています。かれらは大企業主義にも大文学主義にも毒されていない。
浅田:マイナーに見えながら、したたかなスタイル感覚をもった人たちが出てきているのは確かです。ただあえて言えば、僕は大文学はあると思う。大文学はすべて終わったといいながら、フロベールは大文学以外の何物でもない小説をかいた。同じ条件は今も生きています。
72. 第X期批評空間・共同討議
2006/09/05(火) 05:01:36
終わりなく
大江:僕はポスト・モダンの大文学という矛盾を承知していながら、その幻想をすてられないタイプです。そこでいま一つの構想をたてているんです。日本に集まった多様なできるかぎり登場させて、日本とは日本人とは何かを書きたいのです。浅田さんは正面切って日本の文化に見取り図を与える批評活動をされている。僕は小説でそれをしたい。
浅田:「『最後の小説』」というエッセーで、大岡昇平に「最後の小説」という構想をたしなめられたと書いておられましたね。そして、最後から始める三島に対し、ムジールの未完の大作「特性のない男」を引用される。もちろん最後に行き着こうとする欲望は必要ですが、絶対的な完成をもとめる欲望と、けっして終着点にたちえない欲望とが同時に存在することで、小説は終わりなく変容しつづけていくことができるんですね。
大江:大岡さんは真剣に怒られました。自分の方から生の締めくくりをつける、ひとつ前の段階として、その小説を書こうとしていると見抜かれたように思います。僕は意識していませんでしたが。
完全に終わることを求めて、ムジールの小説はかえって終わらず、大きくなり続ける。三島は終わりから構想して小説を小さくしました。終わらない小説とは、同時代と運命のように結びついているものです。「特性のない男」は妹との近親相姦や奇妙な社会運動を描いて、戦争はでてこないが、ムジールは戦後に新しく始めねばならぬ青年たちのために書いたのだとノートしています。
終わりえない、同時代から引き離すと死んでしまう小説を書き続けるというのが、夢として僕にもあります。
浅田:大岡昇平の「堺港攘夷始末」も終わらない。
大江:不幸は、大岡さんが亡くなられたこと。生きていながら終わらせることができなかったなら、さらに小説は時代との関係を露呈したと思います。「堺港」が終わりえないのは、日本とヨーロッパ、アメリカの関係が、なお形をとっていないから。攘夷のころと同じ。漱石も大岡さんも死ぬまでそれを見つめていられました。
浅田:むしろ、解決がないことこそが唯一の解決なのかも知れませんね。
(おわり)
大江:僕はポスト・モダンの大文学という矛盾を承知していながら、その幻想をすてられないタイプです。そこでいま一つの構想をたてているんです。日本に集まった多様なできるかぎり登場させて、日本とは日本人とは何かを書きたいのです。浅田さんは正面切って日本の文化に見取り図を与える批評活動をされている。僕は小説でそれをしたい。
浅田:「『最後の小説』」というエッセーで、大岡昇平に「最後の小説」という構想をたしなめられたと書いておられましたね。そして、最後から始める三島に対し、ムジールの未完の大作「特性のない男」を引用される。もちろん最後に行き着こうとする欲望は必要ですが、絶対的な完成をもとめる欲望と、けっして終着点にたちえない欲望とが同時に存在することで、小説は終わりなく変容しつづけていくことができるんですね。
大江:大岡さんは真剣に怒られました。自分の方から生の締めくくりをつける、ひとつ前の段階として、その小説を書こうとしていると見抜かれたように思います。僕は意識していませんでしたが。
完全に終わることを求めて、ムジールの小説はかえって終わらず、大きくなり続ける。三島は終わりから構想して小説を小さくしました。終わらない小説とは、同時代と運命のように結びついているものです。「特性のない男」は妹との近親相姦や奇妙な社会運動を描いて、戦争はでてこないが、ムジールは戦後に新しく始めねばならぬ青年たちのために書いたのだとノートしています。
終わりえない、同時代から引き離すと死んでしまう小説を書き続けるというのが、夢として僕にもあります。
浅田:大岡昇平の「堺港攘夷始末」も終わらない。
大江:不幸は、大岡さんが亡くなられたこと。生きていながら終わらせることができなかったなら、さらに小説は時代との関係を露呈したと思います。「堺港」が終わりえないのは、日本とヨーロッパ、アメリカの関係が、なお形をとっていないから。攘夷のころと同じ。漱石も大岡さんも死ぬまでそれを見つめていられました。
浅田:むしろ、解決がないことこそが唯一の解決なのかも知れませんね。
(おわり)
73. あ
2006/09/05(火) 22:20:46
浅田基地外って定期的に湧くよな。
74. 第X期批評空間・共同討議
2006/09/06(水) 12:55:20
東大:万能・神・仏・支配者・頂点・絶対王制・特権階級・大名・旧地主・法服貴族・華族・財閥
例:皇族、有象無象ノ次官及ビ局長・日銀総裁・最高裁判事・東証理事・国際司法裁判所
判事・首相・大臣・研究医及ビ臨床医・国連職員及ビ欧州連合本部職員・名誉教授・
渉外事務弁護士・会長・大企業社長及ビ起業家・革命家・宇宙飛行士及ビ旅客機
機長・宗教家・発明家・音楽家・大手組長・投資家・芸術家・建築家・文学者・棋士
京大:研究職&間接部門向キ、学術オタク&引キ篭モリ&ガリ勉、個性独創性創造性アリ、
未解決問題処理能力アリ、幅広イ知識&社会常識アリ、キモメン、分厚イ眼鏡、
真理探究フェチ、文化活動フェチ、受験勉強&偏差値&学歴フェチ、ノーベル賞&
フィールズ賞&文化勲章フェチ、数理フェチ、科学実験フェチ、発明&特許フェチ、
芸術フェチ、論文フェチ、象牙ノ塔フェチ、横文字&漢字フェチ、京都市左京区フェチ
例:浅田彰、朝永振一郎、池田勇人、伊藤清、岡潔、貝塚茂樹、革命家、香西茂、
桑原武夫、高坂正尭、小室直樹、佐々木惣一、佐藤幸治、園部逸夫、高田保馬、
田中美知太郎、利根川進、野依良治、広中平祐、福井謙一、藤井秀人、平安
&平成貴族、松井茂樹、三木清、森重文、森嶋通夫、湯川秀樹、吉田民人
慶応:かっこよさの追求、女性人気絶大、おしゃれ、幅広い知識&社会常識あり、
ビジネス力あり、協調性あり、ブランド力あり、イケメン、東京都港区&神奈川県湘南
例:企業役員、モデル、外資系リーマン、芸能人、スポーツ選手、政治家、外交官、
国際線パイロット、TV局美人アナ、医師(眼科&内科&美容整形外科)
早稲田:営業&直接部門向き、リーダーシップあり、魅力的な個性あり、面白いキャラ、
独創性創造性あり、問題解決能力あり、柔軟性あり 例:大前研一
例:皇族、有象無象ノ次官及ビ局長・日銀総裁・最高裁判事・東証理事・国際司法裁判所
判事・首相・大臣・研究医及ビ臨床医・国連職員及ビ欧州連合本部職員・名誉教授・
渉外事務弁護士・会長・大企業社長及ビ起業家・革命家・宇宙飛行士及ビ旅客機
機長・宗教家・発明家・音楽家・大手組長・投資家・芸術家・建築家・文学者・棋士
京大:研究職&間接部門向キ、学術オタク&引キ篭モリ&ガリ勉、個性独創性創造性アリ、
未解決問題処理能力アリ、幅広イ知識&社会常識アリ、キモメン、分厚イ眼鏡、
真理探究フェチ、文化活動フェチ、受験勉強&偏差値&学歴フェチ、ノーベル賞&
フィールズ賞&文化勲章フェチ、数理フェチ、科学実験フェチ、発明&特許フェチ、
芸術フェチ、論文フェチ、象牙ノ塔フェチ、横文字&漢字フェチ、京都市左京区フェチ
例:浅田彰、朝永振一郎、池田勇人、伊藤清、岡潔、貝塚茂樹、革命家、香西茂、
桑原武夫、高坂正尭、小室直樹、佐々木惣一、佐藤幸治、園部逸夫、高田保馬、
田中美知太郎、利根川進、野依良治、広中平祐、福井謙一、藤井秀人、平安
&平成貴族、松井茂樹、三木清、森重文、森嶋通夫、湯川秀樹、吉田民人
慶応:かっこよさの追求、女性人気絶大、おしゃれ、幅広い知識&社会常識あり、
ビジネス力あり、協調性あり、ブランド力あり、イケメン、東京都港区&神奈川県湘南
例:企業役員、モデル、外資系リーマン、芸能人、スポーツ選手、政治家、外交官、
国際線パイロット、TV局美人アナ、医師(眼科&内科&美容整形外科)
早稲田:営業&直接部門向き、リーダーシップあり、魅力的な個性あり、面白いキャラ、
独創性創造性あり、問題解決能力あり、柔軟性あり 例:大前研一
75. 社会的位置空間・生活様式空間
2006/09/06(水) 13:45:01
貴族系←――――――――――→権力への意思←――――――――――→ユダヤ系
↑能、皇居、ピラミッド、ヴェルサイユ宮、クラインの壷、FRB、ウォール街 (=都会的)
|フーガの技法、大英博物館、ENA、ルーヴル、オルセー、モナコ、Cambridge ↑
|クラレンドンプレス、Oxford、ソルボンヌ、Princeton、ノイマン、MIT、W・バフェット |
|アリストテレス、Harvard、オペラ、 J・ラカン、 ビル・ゲイツ、Stanford、相続遺産 |
|プラトン、文T=旧大蔵=日銀総裁、Yale、L・サマーズ、AER、 NASA、Google |
|クリントン、ボストン、JFK、浅田彰&シュネデール、Lehman Brothers、先物取引|
|シャンゼリゼ、チェス、 シュレシンジャー、絵画収集、ダ・ヴィンチ、自家用旅客機|
|マルクス、T・S・エリオット、外交官、フランス大使館、一橋大=旧通産、商人資本|
|ブリューゲル、グロティウス、『批評空間』、文U、ラファエロ、理V研究医>臨床医|
|ウォーホール、スピノザ、ルイ・ヴィトン、 シャネル、クレディ・スイス、 大前研一 |
|M・フーコー、カラヤン、スウェーデン、ノーベル賞、The Economist、ポルシェ、F1 |
|J・コクトー、(=柄谷行人?)、京都大、デンマーク、ノルウェー、フィンランド、ヨット|
|ハリー・ポッター、ヴァイオリン、ピアノ、ビリヤード、ル・フィガロ、投機、乗馬、BMW|
|古典、超自我、 『構造と力』、『逃走論』、『マリ・クレール』、 ゴルゴ13、イチロー|
↓フィールズ賞、フロイト、ライプニッツ、慶応大、テニス、水上スキー、応用数理科学↓
学術系←―――――――――――→ブランド系←――――――――――→ブルジョワ系
↑能、皇居、ピラミッド、ヴェルサイユ宮、クラインの壷、FRB、ウォール街 (=都会的)
|フーガの技法、大英博物館、ENA、ルーヴル、オルセー、モナコ、Cambridge ↑
|クラレンドンプレス、Oxford、ソルボンヌ、Princeton、ノイマン、MIT、W・バフェット |
|アリストテレス、Harvard、オペラ、 J・ラカン、 ビル・ゲイツ、Stanford、相続遺産 |
|プラトン、文T=旧大蔵=日銀総裁、Yale、L・サマーズ、AER、 NASA、Google |
|クリントン、ボストン、JFK、浅田彰&シュネデール、Lehman Brothers、先物取引|
|シャンゼリゼ、チェス、 シュレシンジャー、絵画収集、ダ・ヴィンチ、自家用旅客機|
|マルクス、T・S・エリオット、外交官、フランス大使館、一橋大=旧通産、商人資本|
|ブリューゲル、グロティウス、『批評空間』、文U、ラファエロ、理V研究医>臨床医|
|ウォーホール、スピノザ、ルイ・ヴィトン、 シャネル、クレディ・スイス、 大前研一 |
|M・フーコー、カラヤン、スウェーデン、ノーベル賞、The Economist、ポルシェ、F1 |
|J・コクトー、(=柄谷行人?)、京都大、デンマーク、ノルウェー、フィンランド、ヨット|
|ハリー・ポッター、ヴァイオリン、ピアノ、ビリヤード、ル・フィガロ、投機、乗馬、BMW|
|古典、超自我、 『構造と力』、『逃走論』、『マリ・クレール』、 ゴルゴ13、イチロー|
↓フィールズ賞、フロイト、ライプニッツ、慶応大、テニス、水上スキー、応用数理科学↓
学術系←―――――――――――→ブランド系←――――――――――→ブルジョワ系
76. 第X期批評空間・共同討議
2006/09/08(金) 07:11:49
浅田彰はグロタンディークの創始した数論幾何("トポスを扱う幾何学")を高く評価している。
77. 島インフルエンザ
2006/09/09(土) 19:37:54
とりあえずあのダサい眼鏡はなんとかしたほうがいいぞ。
だいたい浅田って、柄谷が隣に居るとトラの威を借る狐そのままだな。自分じゃたいしたこと言えないくせに、柄谷が言うアイデアをそのまま要約してあたかも自分の意見であるかのように見せかける。ていうか、全部そうじゃねえか。奴が自分で苦労して到達した見解とかあるんかい?まあ、皆が皆、奴のショボサには気付いているのさ。
そのうち闇討ちにしてやろうか。第X期も一緒にな。ケツの穴拭いて待っとけよテメエ。
だいたい浅田って、柄谷が隣に居るとトラの威を借る狐そのままだな。自分じゃたいしたこと言えないくせに、柄谷が言うアイデアをそのまま要約してあたかも自分の意見であるかのように見せかける。ていうか、全部そうじゃねえか。奴が自分で苦労して到達した見解とかあるんかい?まあ、皆が皆、奴のショボサには気付いているのさ。
そのうち闇討ちにしてやろうか。第X期も一緒にな。ケツの穴拭いて待っとけよテメエ。
78. 第[期批評空間・共同討議
2006/09/09(土) 19:43:50
つーかテメエが死ね!
↓死ね!消えろや!! 2006/09/03(日) 04:12:59
64. 坂本 2006/08/29(火) 23:04:13
龍一関係のネタも盛り込んでくださいよ。
65. 坂本といえば 2006/09/01(金) 21:29:14
坂本ちゃんってどうなったんだ?ケイコ先生は浪曲師(?)になったらしいっす。
66. 真幸VS彰 2006/09/02(土) 06:25:22
偉大なる助教授マンセー
67. 鳥インフルエンザ 2006/09/02(土) 06:51:00
おれがMr.オクレにたいして、こいつ可愛いやつだな、小便飲ませてあげたいね、と感じるのは、たとえば、島田雅彦との対談において、ベンヤミンの『パサージュ論』を文脈にすえてヴェンダースの映画を解説する、趣味人としての感覚の確かさであるとか、あるいは、村上龍との対談なんかで、カルペンティエルの短編『バロック協奏曲』を、作品のスピード感そのままに紹介する手際の鮮やかさであるとかだな。
あんな参考書めいた、『構造と力』みたいなくだらない本をだしたやつと、同一人物とはとうてい思えないよ。あれは相当レベル落として書いたんだろうね、東大法学部に入れなかった、程度の低い京大生に合わせて。
そういえば、以前、どこかで、「宮台真司は、まじめすぎるから言うことがコロコロ変わる、だからカリスマにはなれない」という旨の発言を福田和也がしてたけれども、モダンとポストモダンのはざまで、文字どおり右往左往しちゃってるMr.オクレもまた、可愛らしいよね。小便したくなってくるよ。
↓死ね!消えろや!! 2006/09/03(日) 04:12:59
64. 坂本 2006/08/29(火) 23:04:13
龍一関係のネタも盛り込んでくださいよ。
65. 坂本といえば 2006/09/01(金) 21:29:14
坂本ちゃんってどうなったんだ?ケイコ先生は浪曲師(?)になったらしいっす。
66. 真幸VS彰 2006/09/02(土) 06:25:22
偉大なる助教授マンセー
67. 鳥インフルエンザ 2006/09/02(土) 06:51:00
おれがMr.オクレにたいして、こいつ可愛いやつだな、小便飲ませてあげたいね、と感じるのは、たとえば、島田雅彦との対談において、ベンヤミンの『パサージュ論』を文脈にすえてヴェンダースの映画を解説する、趣味人としての感覚の確かさであるとか、あるいは、村上龍との対談なんかで、カルペンティエルの短編『バロック協奏曲』を、作品のスピード感そのままに紹介する手際の鮮やかさであるとかだな。
あんな参考書めいた、『構造と力』みたいなくだらない本をだしたやつと、同一人物とはとうてい思えないよ。あれは相当レベル落として書いたんだろうね、東大法学部に入れなかった、程度の低い京大生に合わせて。
そういえば、以前、どこかで、「宮台真司は、まじめすぎるから言うことがコロコロ変わる、だからカリスマにはなれない」という旨の発言を福田和也がしてたけれども、モダンとポストモダンのはざまで、文字どおり右往左往しちゃってるMr.オクレもまた、可愛らしいよね。小便したくなってくるよ。
79. 鳥インフルネンザ
2006/09/09(土) 19:50:14
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80. 第X期批評空間・共同討議
2006/09/10(日) 03:39:25
難解なフィルムを愛する天才浅田彰。
ゴダール『映画史』を監修できたのは
世界中を見渡しても浅田彰ただ1人だけ。
ゴダール『映画史』を監修できたのは
世界中を見渡しても浅田彰ただ1人だけ。
81. 第X期批評空間・共同討議
2006/09/10(日) 03:50:08
「浅田彰さんは、本を出す前から、京大何十年に一度の秀才であるとか、天才だとかで、学生はじめ関西の版元に知られていた。1983年の9月末に『構造と力』(勁草書房)が出たときは、そういった学生の間で、カタイ本にしてはよく動いていた。」
82. 第X期批評空間・共同討議
2006/09/10(日) 03:55:40
哲学・社会科学にかぎらず数学・自然科学の先端理論の把握力は抜群。
この点では浅田彰を凌ぐ人類はまずいない。
この点では浅田彰を凌ぐ人類はまずいない。
83. 第X期批評空間・共同討議
2006/09/10(日) 04:05:24
浅田彰/1957年、神戸市生まれ。京都大学経済研究所助教授。専攻する経済学・社会思想史にとどまらず、文学、映画、演劇、舞踊、音楽、美術、建築など、芸術諸分野において多角的・多面的な批評活動を展開する。著書に『構造と力』(勁草書房)、『逃走論』『ヘルメスの音楽』(以上、筑摩書房)、『映画の世紀末』(新潮社)、対談集に『「歴史の終わり」を超えて』(中公文庫)、『20世紀文化の臨界』(青土社)などがある。
84. 第X期批評空間・共同討議
2006/09/10(日) 04:14:51
75の補足:
ミシェル・シュネデール(1944−)フランス国立行政学院(ENA)を卒業後、実務官僚コースを歩む。マクロ経済研究グループ、経済省、会計検査院など経済専門ポストを歴任。その後、フランス文化省の音楽ダンス部門主任担当官に就任。これは文化大臣のもとで教育文化行政の方向を決める重要なポスト。主に作曲家・音楽関係者が任命されるが、シュネデールの就任は異色の人事。一方、公職とは別に精神分析関係の専門的論考も発表。精神分析研究誌 Le Nouvelle Revue de psychanalyseの編集にもかかわる。小説や評伝も多数。趣味はピアノで音楽雑誌にも寄稿するアマチュア音楽家。FMラジオ局「フランス音楽」ではピアニストの孤独、音楽の狂気について語る。著書『記憶の傷』『言葉泥棒』『シューマン 黄昏のアリア』『色褪せた青』『グレン・グールド 孤独のアリア』。 なお、M・シュネデールの父はピアニスト、母はヴァイオリニスト。一方、浅田彰の父系は代々医師、母も趣味の良い医師。両親の職業威信スコアが高めなので浅田彰の勝ち。よって、「日本版シュネデールは浅田彰」というのではなくて「フランス版浅田彰はシュネデール」と言うべき。
ミシェル・シュネデール(1944−)フランス国立行政学院(ENA)を卒業後、実務官僚コースを歩む。マクロ経済研究グループ、経済省、会計検査院など経済専門ポストを歴任。その後、フランス文化省の音楽ダンス部門主任担当官に就任。これは文化大臣のもとで教育文化行政の方向を決める重要なポスト。主に作曲家・音楽関係者が任命されるが、シュネデールの就任は異色の人事。一方、公職とは別に精神分析関係の専門的論考も発表。精神分析研究誌 Le Nouvelle Revue de psychanalyseの編集にもかかわる。小説や評伝も多数。趣味はピアノで音楽雑誌にも寄稿するアマチュア音楽家。FMラジオ局「フランス音楽」ではピアニストの孤独、音楽の狂気について語る。著書『記憶の傷』『言葉泥棒』『シューマン 黄昏のアリア』『色褪せた青』『グレン・グールド 孤独のアリア』。 なお、M・シュネデールの父はピアニスト、母はヴァイオリニスト。一方、浅田彰の父系は代々医師、母も趣味の良い医師。両親の職業威信スコアが高めなので浅田彰の勝ち。よって、「日本版シュネデールは浅田彰」というのではなくて「フランス版浅田彰はシュネデール」と言うべき。
85. 第X期批評空間・共同討議
2006/09/10(日) 04:44:03
バラモン(最高位の司祭・僧侶階級)を超えた浅田彰はデカルト、フェルマー、ニュートン、ポアンカレ、リーマン、ソクラテス、ダンテ、モーツァルト、ゲーテ、カフカ、ソシュール、マホメット、カエサル、モンテスキュー、ベルヌーイ、マックス・ウェーバー、カント、フロイト、マルクス、ライプニッツ、スピノザ、グロティウス、T・S・エリオット、フォン・ノイマン、アリストテレス、ダ・ヴィンチ、ヘルメスなどの生まれ変わり。
86. ↑
2006/09/10(日) 18:33:25
さらに名探偵コナンを忘れるな。
87. 第X期批評空間・共同討議
2006/09/11(月) 03:53:03
バラモン(最高位の司祭・僧侶階級)を超えた浅田彰はデカルト、フェルマー、ニュートン、ポアンカレ、リーマン、ソクラテス、ダンテ、モーツァルト、ゲーテ、カフカ、ソシュール、マホメット、カエサル、モンテスキュー、ベルヌーイ、マックス・ウェーバー、カント、フロイト、マルクス、ライプニッツ、スピノザ、グロティウス、T・S・エリオット、フォン・ノイマン、アリストテレス、ダ・ヴィンチ、ヘルメスなどの生まれ変わり。バレエでいうとシルヴィー・ギエムのような存在(100年に1人の天才)。
88. チャート式ゴダール
2006/09/11(月) 07:08:50
89. 第X期批評空間・共同討議
2006/09/11(月) 07:39:27
「転換点に立つ」「短い中にもたくさんの情報がぎっしり詰まった高密度の多面体」「小さな美しい結晶」「最良の部分を煮詰めて高密度の結晶にしたような作品」「美しすぎないか、格好よすぎないか」「巨大な大全(スンマ)として聳え立っている」「何度か見ると、ちょっと美しすぎるようにさえ思えてくる」「ヨーロッパの偉大な芸術の歴史のすべて、文学だとフローベールやドストエフスキー、絵画だとフェルメールやセザンヌ、それらすべてを集大成したもの」「否定しがたい美」「壮麗な西洋芸術の総体が万華鏡のように散りばめられ、それを正しく継承し体現している」「バランスのとれた文化人」「精密に計算され、美しすぎるくらい美しく撮られ、一分の隙もなく編集されている」「驚くべき普遍性をもって立ち現れてくる」「欲望の両極が、不可能な形で交叉した点に出来上がった奇蹟」「究極的とも言うべき作品」.......まるで浅田彰そのもの。
90. 第X期批評空間・共同討議
2006/09/11(月) 07:47:58
浅田彰こそ華麗に研ぎ澄まされた文化的存在。
91. 第X期批評空間・共同討議
2006/09/11(月) 07:51:38
クラシックとファイン・アートの浅田彰
92. 第X期批評空間・共同討議
2006/09/11(月) 08:06:26
松浦寿輝:「わたしの眼に浅田 彰氏は、「知のフットボール」の世界選手権に参加して戦う日本チームの布陣において、さしずめ攻撃的ミッドフィールダーすなわち司令塔と映っている。」
http://www.repre.org/repre/conference01/02talk.html
http://www.repre.org/repre/conference01/02talk.html
93. 第X期批評空間・共同討議
2006/09/11(月) 08:31:42
名前:考える名無しさん :2006/09/11(月) 08:07:06
今の段階のネットなんてまだ蒸気機関車みたいなもんでしょ。浅田さんがこんな田舎臭くてトロいテクノロジーに興味を持つわけない。大昔の人が夢見ていたテレビ電話みたいな稚拙なもので喜んでる原始人を見て、浅田さんは寒い奴らだと思っているはず。超小型ナノコンピュータが脳に埋め込まれて、5万q離れた人間の思考が直接瞬間的に送り込まれるくらい高速になった段階で興味を持つでしょう。ウェブページやブログなんて、浅田さんにとって頭の回転がトロい土人の原始的な遊びくらいにしか感じられないのでは。
今の段階のネットなんてまだ蒸気機関車みたいなもんでしょ。浅田さんがこんな田舎臭くてトロいテクノロジーに興味を持つわけない。大昔の人が夢見ていたテレビ電話みたいな稚拙なもので喜んでる原始人を見て、浅田さんは寒い奴らだと思っているはず。超小型ナノコンピュータが脳に埋め込まれて、5万q離れた人間の思考が直接瞬間的に送り込まれるくらい高速になった段階で興味を持つでしょう。ウェブページやブログなんて、浅田さんにとって頭の回転がトロい土人の原始的な遊びくらいにしか感じられないのでは。
94. ↑
2006/09/11(月) 09:27:35
浅田アキラはいくつまで生きられるのか?
95. 第X期批評空間・共同討議
2006/09/12(火) 09:16:54
浅田彰さんは、おそらく、私が人生で出会った最もインテリジェントな方でしょう。政治、経済、哲学、芸術・・・どんな領域でもオールマイティ。私を相手にくだらない世間話をしていたって、インテリジェント。英語の鮮やかさは勿論のこと、イタリア語も、ドイツ語も、フランス語も・・・。「頭のいい人は、何をやっても飛びぬけているんだ・・・」と、ため息をつくばかりです。その浅田さんが、まだゲラの出る前、私のコンピュータからファイルでお送りした原稿を読んで、コメントを寄せてくださいました。しかも、ショート・バージョン、ミディアム・バージョン、ロング・バージョンと、3タイプも!どれもあまりに美しくて、ひとつは選べず、ショートを帯の表に、ロングを裏に、掲載させていただきました。浅田さんのエピソードは、第五章の「シチリアの風」に登場します。『ピナ・バウシュ中毒』ぜひ読んでくださいね!
2003年10月26日
楠田 枝里子 ←東京理科大学理学部卒の翻訳家&サイエンスライターwww
2003年10月26日
楠田 枝里子 ←東京理科大学理学部卒の翻訳家&サイエンスライターwww
96. 第X期批評空間・共同討議
2006/09/12(火) 09:23:44
批評空間の解析結果
批評空間の49%は記憶で出来ています
批評空間の33%は苦労で出来ています
批評空間の8%はマイナスイオンで出来ています
批評空間の7%は成功の鍵で出来ています
批評空間の3%は心の壁で出来ています
批評空間の49%は記憶で出来ています
批評空間の33%は苦労で出来ています
批評空間の8%はマイナスイオンで出来ています
批評空間の7%は成功の鍵で出来ています
批評空間の3%は心の壁で出来ています
97. 第X期批評空間・共同討議
2006/09/12(火) 09:26:05
『批評空間』の解析結果
『批評空間』の61%は記憶で出来ています
『批評空間』の17%は知恵で出来ています
『批評空間』の8%は心の壁で出来ています
『批評空間』の8%はミスリルで出来ています
『批評空間』の6%はマイナスイオンで出来ています
『批評空間』の61%は記憶で出来ています
『批評空間』の17%は知恵で出来ています
『批評空間』の8%は心の壁で出来ています
『批評空間』の8%はミスリルで出来ています
『批評空間』の6%はマイナスイオンで出来ています
98. 第X期批評空間・共同討議
2006/09/12(火) 09:27:36
99. 第X期批評空間・共同討議
2006/09/12(火) 09:30:21
critical space の解析結果
critical space の74%は勇気で出来ています
critical space の10%は陰謀で出来ています
critical space の6%はお菓子で出来ています
critical space の6%は言葉で出来ています
critical space の4%は成功の鍵で出来ています
critical space の74%は勇気で出来ています
critical space の10%は陰謀で出来ています
critical space の6%はお菓子で出来ています
critical space の6%は言葉で出来ています
critical space の4%は成功の鍵で出来ています
100. 第X期批評空間・共同討議
2006/09/12(火) 09:32:41
Asada Akira の解析結果
Asada Akira の56%は優雅さで出来ています
Asada Akira の33%は心の壁で出来ています
Asada Akira の9%は成功の鍵で出来ています
Asada Akira の2%は気の迷いで出来ています
Asada Akira の56%は優雅さで出来ています
Asada Akira の33%は心の壁で出来ています
Asada Akira の9%は成功の鍵で出来ています
Asada Akira の2%は気の迷いで出来ています
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